――あーあ、つまんねえ……
     アヴァロンは暇を持て余していた。
     いや、正確に言うと彼は現在魔王城で行われている魔界会議に出席せねばならない身の上だったが、正直なところ天界との決戦における作戦だとか、いかに人間の魂を効率よく回収するかなんてセミナーにはまるで興味が持てず、今日も今日とて絶賛サボタージュ中なのである。遅刻早退無断欠席は当たり前、寧ろ席に着いていると明日は槍が降るとさえ揶揄される――彼はそう言う男だった。
     魔界の日常は退屈だ。
     悪党にとっては住みやすい居心地のいい場所であるはずなのに、刺激的な出来事もやりたい放題な環境も、何百年と過ごせば当たり前の通常運転、普通のものでしかなくなる。感覚が麻痺してどうでもいいものに成り下がる。
     寿命の恐ろしく長い悪魔にとって、それは何よりも耐え難い苦痛であり拷問だった。こんなことに命を空費したくはない。
     だから、と言う訳でもなかったが、アヴァロンは時間を潰す際こうして人間界にいることが多かった。確かに人間は脆弱で容易で下らない生き物ではあったが、予定調和ばかりではないことも彼はよく知っていたのだ。何しろ時々こちらの予想もしていなかったことをしでかしてくれることがある。それを見るのは、毎日同じことの繰り返しである退屈の中において貴重な娯楽であった。
     それに魔界にはない青空がアヴァロンは割と気に入っていた。
     魔族は極端に日光が駄目な種族が多い中、彼は拒否反応の起こらない体質だったおかげで、こうしてのんびりビルの屋上で昼寝に勤しむことが出来る。都会の空気は排気ガスやら光化学スモッグやら有毒物質で溢れていて、それなりに快適だった。
    ――今日はどこに足を運んでみるか……
     欠伸を噛み殺しながら、ごろりと寝返りを打った時のことである。
     どこからともなく落下して来たものにポコンッと頭を小突かれた。痛くも何ともなかったが、サボリを見咎められたようで反射的に首を竦め、目の前に転げて来た物に手を伸ばす。
    「こりゃあ……」
     掌にちょうど収まるくらいの大きさの宝石だ。けれど呼吸するように時折弱々しい光を発するこれは、決して鉱物ではない。人間の魂の結晶だ。しかもくすんで曇った色をしているところを見ると、天界ではなく魔界で回収すべき代物である。自殺者か犯罪者か――どちらにしろ天界の門を潜ることの出来ないものだ。
    「何か知らねえけどラッキー♪」
     そのまま黙ってくすねてしまおうと、宝石を懐にしまいかけたところで頭上から鋭い声が降って来た。
    「それ、返して下さい!」
     見れば宙空には、真っ白な翼を広げた天使が形のいい眉を吊り上げてこちらを睨みつけているところだった。柔らかそうな金髪と緑がかった青い双眸。絵に描いたようにいかにもな容貌はどこか初々しく、身につけている制服も真新しい二枚翼――大方まだ先輩の同行が外れたばかりの新人なのだろう。
     勢い任せに叫んでみたものの、こちらの正体が悪魔だと気付いて可愛らしい顔からは血の気が失せている。それでも気丈にぎゅっと口唇を引き結ぶと、彼はゆっくりと降下して来てアヴァロンに手を差し出した。
    「拾っていただいてありがとうございます。それ、僕が落としたので返してくれませんか」
    「どうして」
    「ど……どうしてって、それを運ぶのが僕の仕事なんです。例え一つでもなくしたら困ります!」
    「こいつぁ汚れまくってて天界の門なんか潜れやしねえよ。俺が貰ってやる。その方が手間が省けていいだろ」
    「駄目ですってば! 確かにこのままじゃ門は潜れないけど、ちゃんと浄化槽に持って行って綺麗にしたら大丈夫なんです。魔界になんか連れて行かせませんから」
     力尽くも辞さない、と言う表情をしている割にその言葉には現実感が伴っていない。強硬姿勢を見せればこちらが折れて宝石を返してくれる――そう信じてやまない何かを、この天使は持っているらしかった。
     性善説など甚だ勘違いだ。
     嗤いたくて仕方がない。
     人間ならばそれでもいいかもしれないが、こちとら長年悪魔をやっているのである。良心など最初からない。他人を思いやる気持ちなど生まれた時から持ってない。
     悪魔を動かすのに必要なものは同情でも憐憫でも優しさでも正しさでもない。労力と同等の代価、生贄となる報酬でもって結ばれる契約である。
     それを思い知らせてやらねばなるまい。
     アヴァロンはゆっくりと起き上がると天使を見やってにんまりと嗤った。
    「お前、名前は?」
    「な、名前!? そんなもの今関係な……」
    「名前は」
    「…………ルカ、です」
     もう一押しすると、教えなければ話を進めてくれないとでも思ったのだろう。僅かに口を尖らせた不服そうな口調で、天使はそう名乗った。
    「それ、本当の名前か?」
    「どう言う意味ですか?」
    「いや、こっちの話だ。何でもない」
     今時の先輩は、悪魔相手に自分の真の名を教えてはならないことも忠告してくれないらしい。真の名――それは魂を縛る何よりも強力な楔だ。だからこそ悪魔は取引で偽名を許さず、契約者の魂をその掌中に把握する。
    「そうだな……ルカ、この宝石を返して欲しかったら取引しようぜ」
    「取引……ですか?」
     声色が一層の警戒心を帯びる。
     ぎゅっと腕に抱えた残りの宝石を奪われまいと抱き締めるルカの姿に思わず苦笑して、
    「別に代わりにそっちの寄越せなんて言わねえよ」
    「じゃあ、一体……」
    「月に一回でいい。俺とデートしようぜ」
    「はあっ!?」
     その提案は余程彼にとっては前代未聞の言葉であったらしい。寝耳に水、と言わんばかりに目を白黒させている。
    「そのくらい別にいいだろう? 規約違反じゃあるまいに。俺だって独りでふらふらするより誰かと一緒の方がいい。それも出来るなら可愛い方がいい」
    「そりゃ、確かに……そんな規則はありませんけど、でも、」
    「はい、じゃあ決まりー。明日ここで待ち合わせな。心配しなくても、そんなに時間は取らせねえから」
     混乱しているルカに向かって宝石を差し出す。
    「じゃあ、約束。な?」
    「あ、ありがとうございます」
     勢いに押されてルカは宝石を受け取る。これで契約は完了だ。そうでなくとも誠実さ、と言う基盤がある天使は一度交わした約束を、どんなに下らない小さなものだとしても無視出来ない性分である。
    「俺ぁ昔から、悪魔も天使ももっと協力し合うべきだと思ってるんだ。そのためにもせっかく知り合えたお前と、いろいろ話してみたい」
     す、と手を伸ばすと面白いようにびくりと身体を強ばらせるルカに、アヴァロンは小さく嗤う。
    「頭に葉っぱついてただけだ」
    「あ、ありがとう……ございます」
    「でも出来るなら、個人的に親しくなりたい。お前に惚れた」
     油断する耳元に低い声でそっと睦言を落とすと、面白いくらいにその肌が首筋まで赤く染まる。
    「し、失礼します!!」
     こちらの手を振り切るように翼を広げたルカは、止める間もなく天高くに飛び去ってしまった。慌てて羽ばたいたせいだろう、美しい真っ白な羽が数枚足下のコンクリートに散らばっている。
     それを一つ拾い上げてそっと口唇に押し当てると、アヴァロンはそのまま薄く笑みを浮かべてぐしゃりと握り潰した。

    * * *

    「イケないお人だ……『堕落王』アヴァロン伯爵閣下」
     不意に背後から上がった聞き覚えのある声に、小さく嗤ってアヴァロンは左腕を差し出した。
     ばさり、と羽音を響かせてそこに舞い降りたのは大きな鴉である。ただしぎょろりと三つ目を瞬かせるこれは、れっきとした彼の使い魔でありお目付役でもある魔界の鴉だ。名をドロス。
     彼は一本足で器用に主人の腕に止まったまま、やれやれと溜息をついて首を振った。
    「全く……労せずして人間の魂が三つも回収出来るところだったのに、どうして素直に返してやるんですか。あんなヒヨッコ天使なんか、貴方の敵ではありますまいに。ご存じですか? 今月のノルマはまだ半分も達成しておりませんぞ。先日もサタン陛下から直々にもう少ししっかりやれとのお言葉を頂戴したばかりだと言うのに、全く閣下と来たら……」
    「まあまあ、俺が本気出したらそのくらいあっと言う間だから。大したことねえから。それより」
     延々と続きそうだったドロスの言葉を嘴を指先で押さえて何とか宥めると、アヴァロンは潜めた声で続きを紡ぐ。
    「人間百人捕まえるより、天使サマを一人堕落させる方が、有意義だし面白そうだと思わねえか」
    「何と!!」
     どんな仕事もそれに肌が合わない不適合者がいるのは当たり前で、それは天使や悪魔とて例外ではない。厳しい戒律に縛られて息が詰まり、自ら堕ちる天使と言うのも少なくないものだ。
     が、誘惑に弱く容易く転ぶ人間と同様、そんなものにアヴァロンは興味がない。自らの意志で堕天する者は最初からそう言う気質の持ち主なのだ。
     けれど、決して穢れを知らない真白い新雪のように純粋無垢な魂を、高潔で気高い魂を、引きずり落として踏みにじりぐちゃぐちゃの罪悪で犯して跡形もなく壊してしまうような――そんなやり方に得も知れない快感と興奮を覚える。
     楽しげに黄金色の双眸を細めて嗤う主人に、ドロスは小さく溜息をついた。
    「成程……そう言うことでしたらサタン陛下への報告は、しばし胸の内に止めておきましょう」
     今はもう逃げ出してしまった天使の背中は見えない。けれどその行方を追うように空を眺めながら、アヴァロンはぺろりと舌なめずりをした。
    「さぁて……あいつはどんな声で啼いてよがってくれんだろうな?」



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