カウンターの片隅から飛んで来た声に、そんなものが本当にあったら人々はそれを酒と呼ばずに劇薬と呼ぶであろうと思いながらも、彼は突き出された空のグラスを受け取りに端のその席に向かった。開店直後からその椅子に座っているのは、恐らく酔わずにちゃんとしていたならばりばりのキャリアウーマンと呼んで然るべき風貌の女性だった。化粧を直して背筋を伸ばしていれば華のあるなかなかの美人だ。
そんな彼女がどうしてこんなところで独り飲んだくれているのか詳しいことは憶測するしかなかったが、何度も時間を気にしたり連絡を待っているようにスマフォを覗いているところから判断するなら、待ち合わせ相手にすっぽかされるか何かしたのだろう。いや、始めの「ウイスキーのロック」と注文した口調が若干怪しかったことを考えると、ケンカして既に出来上がった状態だったのかもしれない。
しかし、いくら今日は週末で閉店にはまだ程遠いとは言え、女性が日付の変わるまで呑み続けると言うのは感心出来兼ねたし、明らかに彼女は呑み過ぎだった。
汗をかいたグラスを手にしたものの、彼はそれを満たそうとは思わなかった。
「お客様、そのくらいでお止めになった方がいいですよ」
「呑まなきゃやってられないわよ」
「……フラれたんですか?」
「騙されたの。彼氏だと思ってた男が結婚詐欺師で、五百万の通帳と印鑑持ってドロンされたの」
今度はカウンターに突っ伏してわあっと声を上げる女性。他人が聞けばそれは御愁傷様としか言えなかったが、彼女に取っては確かに記憶を根こそぎ失くしてしまいたいほどの悲しみなのだろう。
彼は仕方なしに溜息をついてアイスピックで氷を砕きながら淡々と言葉を紡いだ。
「良かったじゃないですか。本当に結婚してしまった後に、彼がそんな男だと解るよりはだいぶマシです」
「…………それは、そうかもしれないけど、でも! 三年よ!? それだけ付き合ってればまさかって思うじゃない!! チクショー、この歳で今さら別の恋愛なんて出来ないわよ!」
「在り来たりな言葉で恐縮ですが、結婚だけが幸せじゃないですよ。僕の友人で既婚は四人いますが、みんな口を揃えて式の日が人生の最高潮だったと言ってます」
冷えたシェーカーに数種類のリキュールを注ぐ。この調合レシピが要でどの味が多過ぎても少な過ぎても駄目だ。理想からかけ離れた雑多でがちゃがちゃとうるさいだけの酒になる。
それは恰も恋愛に似ていた。酔っている内はこの上なく甘美なのに、現実に引き戻されてしまえば醒めて壊れていくしかない砂上の楼閣のような。何事も重要なのはバランスだ。何に重きを置くか――人それぞれに違うから、折り合いの地点を見つけることは困難を極める。
「夢だったのよ」
ぽつり、俯いた口唇からこぼれる言葉。
ついでのように頬を伝った涙の雫がテーブルの木目を穿つ。
女の涙は武器だ、と言っていたのは誰だったか、と彼は記憶を辿った。そんな本音を偽るための一面もあるのかも知れないが、少なくとも剥き出しの感情を乗せて吐き出されたこの熱は本物だ。
「大好きな人と結婚して、幸せな家庭を築いて、温かいご飯作ってお帰りって言ってあげるのが……」
「………………」
「幸せにしてあげるって、そう言ってくれたのに」
きっちり八回シェーカーを振ってカクテルを作った彼は、ゆっくりとそれをグラスに注いだ。僅かに溶けた氷がかろりと音を立てる。
「僭越ながら、僕は幸せと言うものは何もせずに自然とそうなるものではないし、誰かから与えて貰うものでもないと思っています。幸せは誰かと一緒に作り上げて行くものだと。維持していくのは大変ですし、なくても別に死にはしません。でも、必要なんですよね……明日も楽しく生きていくためには」
「…………」
「だから、これを呑んだらもう泣かないで下さい。最後の一杯です。特別ですよ、僕の試作品」
目にも鮮やかなミントグリーンの液体の中に、可愛らしい釣鐘形のラムネが浮かんでいる。彼女は押しやられたグラスを黙って手に取ると、そっと縁を傾けて冷たいアルコールを口に含んだ。甘酸っぱい柑橘系の甘みと芳醇な花の香りが上品にマッチしたそれは、今まで呑んだことがないような爽やかな気分を彼女にもたらした。まるで胸の内に巣食っていた遣る瀬ない怒りと悲しみを丸ごと浚ってくれるかのような――
「……美味しい」
「それはよかった。まだ殆んど出回っていない鈴蘭のリキュールで試行錯誤した甲斐があったと言うものです」
「へえ……何て名前のお酒なの?」
「君影草、です。貴女に再び幸せが訪れることを祈って」
果たして、彼女がそれをどう言う風に捉えたのかは定かでない。
けれど一瞬驚いたように目を丸くした彼女は、小さく笑みを浮かべてみせた。
「ありがとう、マスター」
――明日の貴方が笑顔でありますように。
以上、完。
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