突き刺すような激しい陽の光が頭上から降り注ぐ。田舎が涼しいなんて神話は当の昔に崩壊し、アスファルトの敷き詰められた長い道と田畑の広がる全面日向の大地は、都会のビル群と変わらず茹だるように暑い。
     どこかでカナカナカナ……と蜩の鳴く声が聞こえる。蛙の大合唱から油蝉や熊蝉の独壇場を経て、彼らの声が聞こえ始めるとどことなく物悲しい気分になってしまうのは何故なんだろう。暦の上では夏が終わり、秋を迎える頃合いになるとは言え、実際暑さが和らぐのはあと一月は先だ。
     多分それは人の去って誰もいなくなった海の浜辺を眺める時と同じ気分で、あっと言う間に過ぎ去った勢いのある季節に独りだけ取り残されてしまったような虚しさを感じるからなのだろう。祭の後の境内を訪れたのと同じ静寂が、世界中から立ち上っている気がするのだ。
     ふと、陽炎揺らぐ道の向こうから、誰かが歩いて来る姿が見えた。少し背中を丸めた癖のある歩き方は、昔から少しも変わらない。約束をしている訳ではなかったから、今年はもう来てくれないのではないかと思っていたが毎日日がな一日待っていたのが功をそうしたらしかった。
     都内から電車を乗り継いで片道二時間半、一時間に一本しかないバスに揺られて来たのだろう。最寄りの駅はこの坂の下にあるが、たった五分ほど歩くだけでも彼のシャツは汗でびしょ濡れだった。ばたばたと襟元を忙しなく動かして風を送り込もうとしているが、涼しくはならないだろうと思わず苦笑する。
    「暑ぃぃ……溶ける」
    「お疲れさん」
     声をかけると、彼はぱっと顔を上げてあの頃と変わらない飾り気のない笑みを浮かべた。
    「よお、遅くなっちまって悪かったな。うちのクソ会社お盆休みとか全然なくてよ……まあ、時期外れたおかげで人少なかったけどな」
    「社会人は大変だね……あんま無理すんなよ」
    「本当はもっとちょくちょく来たいんだけどさ、ごめんな」
    「いいよ、充分だよ。嬉しい」
     学生時分は小さな旅行も兼ねてか、大型連休の度に自慢のバイクで来てくれたものだが、月日が経つごとにその足は次第に遠のいた。
     本当はもういいよ、気遣わないでとこちらから言うべきなのかもしれないけれど、実際こんなにも彼に逢いたいと逢えて嬉しいと思う以上、そんな言葉を口に出来るのはまだ当分先のことになりそうだ。
    「あ、そうだ。これお前好きだったろ? 男に花って何かなーとも思ったけど、そこの店で見つけたからさ」
     そうしておもむろに差し出されたのはひまわりの花束だった。
    「今シーズンは最後よ、とか言われたらやっぱ買わなきゃって思うだろ? 食い物が良かったとか文句言うなよ」
    「うん…………うん、ありがとう」
    「酒はある! ビールでいいよな」
    「こんな時間から? いいね」
     が、取り出してプルトップを引き上げたアルコールは道中で程よくシェイクされていたのか、勢いよく飛沫になって噴き出した。冷たい水滴が僕を濡らす。同時に開けていた自分の分を頭から浴びて、僕共々彼もビールまみれだ。
    「あー勿体ね! まあ、いいか……贅沢なシャワーだろ」
    「君は相変わらずだね」
     僕が好きだったあの頃と何一つ変わらない。背は伸びて、顔立ちも少年のそれから大人の男へと成長はしたけれど、笑うと八重歯が覗くのもあったかい掌もそのままだった。
     幼なじみで物心ついた時からいつも一緒で、楽しいことも悲しいことも分け合って共に過ごして来た。兄弟よりも傍にいて、これからもずっとそうして隣にいるものだと思っていた。
     想いを伝えたことはない。
     好きだと言われたことはない。
     でも彼もきっと同じ想いでいてくれるから、こうして時間を作って帰って来てくれるのだろう。
     ビール一缶を空ける間、他愛もない近況報告の言葉を交わす。いつまでもこの時間が続けばいいと思った。楽しい時間ほどあっと言う間に過ぎてしまう、とはよく言ったもので、彼は缶の底に残った僅かなアルコールの残滓を飲み干すと、ぐいっと口元を拭って立ち上がった。
    「じゃあ、俺そろそろ行くわ」
    「…………うん、本当にありがとう。楽しかったよ」
     彼はジーンズの後ろポケットから潰れた煙草の箱を取り出すと、一本をくわえて火をつけた。その先端を赤くチリチリと消費しながら煙が上って行く先をーー抜けるように雲一つない青い夏空を見上げる。
    「あの日と同じ空だなあ……」
    「そうだね」
     しみじみとした口調につられて胸が潰れそうな切なさが込み上げて来る。
     ああ、夏が終わる。
     今年もあっと言う間に夏は終わってしまうのだ。
     彼は一つも吸いつけることなく火のついた煙草を足元に転がすと、アスファルトに置きっ放しにしていた鞄を背負い直した。
    「また来る。来年も……また絶対来るから。夏が終わる前に、絶対来る」
    「うん……待ってるよ」
     じゃあな、と手を挙げて踵を返し遠ざかって行く背中を追いかけたい。待ってと、やっぱり一緒に行きたいと、その手を掴んだら彼はいつもと同じ笑みを浮かべるだろうか? それとも困った顔をするだろうか?
     けれどそれでも僕はその場から動かずに、今年も見えなくなるまで彼を送った。
     絶対来る、の言葉が果たされなくなる日がいつか来ることを知りながら、その瞬間を諦めねばならないことを知りながら、それでも彼の言葉を信じて見送った。
     さあ、僕も帰らなければ。
     夏は終わった。
     一時焦がれるような夢の時間は終わったのだ。
     ばいばい、友よ。また来年。
     変わらずこの木の下でまた逢おう。
     目を閉じ、煙草の煙に意識を沿わせる。ゆっくり溶けて一つになる。
     カナカナカナ……
     どこかで蜩が鳴いている。
     生温い風が一つ吹いた後には誰の姿もない。ただ一束、墓前に供えられたひまわりの花束だけが黙って風に揺られていた。



    以上、完。