紅緋の下げ緒


    「お前、ちょっと頼まれてくれるかぃ」
     いつもと変わらず道場で稽古をしている最中、師から呼び出されて文六がそう告げられたのは、もうすぐ雨季を迎えようかとする頃合いだった。その日も薄っすら空にかかった雲のせいでか、むしむしと纏わりついて来るような空気が不快だったのを覚えている。
    「お使いですかぃ、師匠」
    「……そんな気楽なもんならよかったんだがな」
     火を入れた煙管をくわえ、師はぷかりと煙を吐いてみせた。
    「先日、兵右衛門が用事で出たのは知ってるだろう?」
    「へえ……そう言や、すぐ戻るみてえな口振りだったのに兄ぃはまだ帰ってないんですかぃ?」
     兄弟子である兵右衛門が旅に出たのは、確か今月頭のことだった。かれこれ半月以上は戻って来ないので、随分とまあのんびりしているものだと思っていたところだ。道場の方も師範代の彼の姿がめっきり見えないものだから、不満を口にしている者も出始めている。
    「そうじゃ。もしかしたら……兵右衛門のやつは死んでしもうたやもしれん」
    「死……いやいやまさか、兄ぃに限ってそんなこたぁねえでしょう。この前だって、五人いた破落戸相手にあっさり勝ったでしょうに」
    「あやつに頼んだのは、化物退治なんじゃ……妖しい術なぞ使われたら、いくら剣の腕が立とうと敵わぬかもしれん」
     何でも、師の元に先月そうやって村長が訪ねて来たのだと言う。この村から街へ出るためには途中山を一つ越えなければならないのだが、どうやらそこに棲み着いた化物が、通り過ぎる人々を襲って喰っているらしい。
     始めは性質の悪い野盗の集団かでかい熊でも居座っているのかと、何度か男衆が探索してみたそうだが、それらしい痕跡は発見されずその後も何度も人死が出た。それがいずれもおおよそ今まで見たことがないほど無残な有様で、ちょっとやそっとでは手に負えまいと兵右衛門に白羽の矢が立ったらしい。
     確かに彼は殿様から召し抱えの話が何度か来るほど、近隣では名の通った剣客であった。
    「じゃから文六、事の次第を確かめに行ってくれんか? 少なくとも、あやつが万一にも恐れを成して逃げたのではないか、などと陰口を叩かれるのは不憫でならん」
    「……承知しました。兄ぃの無事を確かめて参りやす」
     畳に平伏して、文六はそう告げた。
     もし脚を悪くしていなければ、師は自ら出向いていたことだろう。そうして無碍に弟子を散らしてしまったかもしれない自責の想いを拭うためにも、弟分である自分が行かねばなるまい。
    「……頼んだぞ」
     そう返す師の声は、やはりいつもの覇気に欠けている気がした。


    * * *


     翌日、支度を整えた文六は早々に道場を出立した。天気は生憎の空模様である。まだ降ってはいなかったものの、いつ泣き出すかと言うその顔を見て、彼は幸先の悪いものだと溜息をこぼした。
     件の山はそう遠くはない。今日の内には着くだろう。
     笠と蓑と師から預かった刀を腰に佩いて、紅緋の下げ緒で括っておく。この組紐は免許皆伝を賜った時に師から贈られたものだ。兵右衛門も同じ物を持っている。
    「吉兆を呼ぶ色だ。お前が今後も精進していけるよう」
     早くに親を亡くした文六にとって、道場は家族のようなものであった。この歳になるまで面倒を見てくれた師は言わずもがな、一回り歳の離れた兵右衛門も実の弟のように可愛がってくれた。
     無論厳しくもあったが、人見知りの激しかった自分が弟弟子たちに稽古をつけてやれるようになったのも、偏に二人の存在があったからであるに他ならない。もし、人死の中に道場の誰かがあったなら、文六は真っ先に飛んで出たことだろう。同門の繋がりと言うものは、血の繋がりに勝るとも劣らない。
    ーー何ぁに、兄ぃならきっと無事だ……取っ捕まっておるなら助け出さねば……待ってろよ!
     濃い土と緑の匂い。
     遠くには鳥の鳴き声も聞こえる。
     畑仕事をする村の人々、子供たちの笑い声も、いつもと変わらない。
     もし、化物が山を通る人々だけでは満足出来なくなって村へ下りて来たりなどすれば、彼らは無事では済まないだろう。だからこそ兵右衛門は危険を承知で、師からの言葉を受けたのだ。武を嗜むものとして、これ以上ない喜びと誇りであったことだろう。
     細い街道を行く内に、ぽつぽつと家の数が減って行く。途中持参した握り飯と水で腹拵えを済ませ、文六は淡々と歩を進ませた。
     日が沈みかけた頃、ちょうど件の山の麓に到着した。見上げんばかりの巨大な黒い影は、どっしりと行く手を阻むように文六の前に佇んでいる。まるで山そのものが彼の敵であるかのように不気味な風が枝葉を揺らし、手ぐすね引いて待ち構えているように見えた。
     折悪しく堪え切れなかったように雨が降り出し始め、濃い樹の影をより鬱蒼としたものにしていた。辺りはどんどん暗くなり、正直なところこれから山へ入るのは死にに行くようなものだと冷静な部分が叫んでいる。
     もう少し前に民家があったなら、引き返していたかもしれない。
    ーー莫迦者! 俺は兄ぃを探しに来たのだろう!
     どちらにしろ、その化物を見つけなければ兵右衛門の現状など知る術はない。そうして、化物を見つけるためには、こんな夜こそ山に足を踏み入れるべきであった。
    ーー臆するな……己を信じよ……
     ぎゅっと刀を握り締め、文六は降りしきる雨の中踏み出した。
     入口らしき道の脇にぽつんと小さな石像が立っている。はて、道祖神の類かと目を凝らしたものの、苔生したそれはもはや様相が解らぬほどだ。手拭いで綺麗にしてやろうとしばし足を止める。そうしている内に不思議と心持ちも落ち着きを取り戻した文六は、兵右衛門の無事を祈り、再度歩き始めた。
     それほど急勾配な道ではなかったが、濡れた下草に足を取られぬよう慎重に進む。太い樹の根が所々顔を出しているせいで、うっかりするとしたたかに転んでしまいそうだった。
     草木の匂いがぐん、と濃くなる。
     人が行き交うことを知っているからか、動物たちの気配がいくつかあったものの近づいて来る様子はない。時折聞こえる鳴き声だけが全てだ。
    ーーそれにしても……
     雨足は酷くなる一方である。火を持って来てもこの有様では役に立たなかっただろう。
     ちかちかと稲光が走る様も見えて、文六は次第に五感が麻痺していくような気さえした。絶えない雨音が鼓膜を犯し、山の匂いが脳を支配し、ここまで殆んど歩き通しで疲労した身体をゆっくり侵食して行くようだ。
     おまけに霧も出て来たのか、視界がぼやけている気もする。
    ーー落ち着け……ちゃんと息をしろ……
     夜闇は要らぬ影を見せる。
     大切なものは確かなものはいくつもない。
     握り締めた師の刀。結んだ下げ緒。
    ーー大丈夫……指の先まで神経を集中させるんだ……
     生ぬるい突風に煽られて転落してしまわないよう注意を払って進む内、どのくらい歩いたものかやがて文六の目が稲光とは違う灯りを捉えた。
     屋敷だ。
     こんな山の中に不自然なほど立派な屋敷が建っている。その門に掲げられた篝火が、凄まじい雨風など知らぬ顔で煌々と辺りを照らしているのである。普通の炎ではあるまい。
    ーーああ、ここだ……
     野盗の溜まり場でもない。凶暴な熊でもない。
     人ならざる者から放たれる気配、と言うものを文六は今まで感じたことなどなかったが、びりびりと全身が総毛立つような悍ましさを覚えた。
     誘われているのだろう。
     ごくり、と一度喉を鳴らしたものの、渇ききった口内はからからで飲み込む唾液などなかった。
     意を決して、力いっぱい扉を叩く。
    「頼もう! 夜分遅くに申し訳ない、どなたかいらっしゃらぬか!?」
    「へえ、どなたさんでしょう?」
     何度かそうしていると、かたりと潜戸が開いて中から若い娘が顔を見せた。
     黒髪を綺麗に結い上げ、牡丹のあしらわれた着物を纏っている。目元と唇に差された紅が色の白い肌に映え、思わず息を飲むほど美しかった。
     てっきり怪しい人物が姿を見せるものだと思っていた文六は、完全に虚を突かれてしまう。
    「……すみませぬ、急ぎの用があり山越えをしようとしたのですが、生憎の天気で道に迷いました。もしよろしければ、少し屋根を貸していただけませぬか」
    「あれまぁ、それは難儀なことで……この雨では山越えは危のうございます。大したおもてなしは出来ませぬが、お泊りになって朝を待った方がよろしいかと」
    「いえ、しかし……」
    「すぐ家の者に着替えと食事を用意させますので」
    「…………かたじけない。では、お言葉に甘えて」
     促されるままに、潜戸の中へ招かれる。
     ぎぃ、と蝶番の軋む音が、雨風の中やけにはっきりと響いて聞こえた。


    * * *


     案内されたのは立派な六畳間だった。
     よく客が寝泊まりする場所として使われているのか、隅には布団が一組置かれている。卓袱台と洒落た造りの行灯がある至って普通の部屋だ。妖しい気配は今のところない。化物の巣窟らしき屋敷に足を踏み入れたと言うのに、妙に気分は落ち着いていた。
     もしかしたら、この屋敷に住まう者はここに化物が潜んでいることに気づいていないのかもしれない。
    「すぐにお食事、お持ちしますので。お召し物はそちらをお使いください」
    「ありがとうございます」
     娘が去ったのを確かめてから、文六は濡れた着物を脱いだ。蓑のおかげで水が滴るほど悲惨な有様にはならずにすんだものの、やはりところどころ染みている。
     衝立に広げて乾かしながら、籠の中に用意されていた着物を纏った。外は風こそ収まったものの、相変わらず激しい調子で雨が降り続けている。
     小窓の障子を開けると、途中ちらりと目に入った見事な中庭が闇に濡れていた。晴れた月夜であったなら、さぞかし風流だっただろう。草木の配置、石燈籠、玉砂利と落ち葉の対比。そのどれもが実に美しい。
    ーー縁側があって酒でも呑めたら最高だろうな……
     などと不謹慎な考えを嘲笑うように、視界の端を何かが過ぎった。咄嗟に飛び退って距離を取るついでに、脇に置きっぱなしにしていた刀を掴んだ。
     が、
    「にゃあ……」
     と声を上げたのは一匹の三毛猫であった。
    「お前……どこから入って……」
     部屋の隅に座ったまま、じ、とこちらを見つめる小さな影に、本物か化物の手先か、とじわり嫌な汗が滲んだところで、襖が小さく叩かれる音がした。
    「お食事お持ちしました」
     先程の娘が膳を抱えて入って来た。大したもてなしは出来ぬ、と言っていた割に、その上に並べられた品数は多い。温め直してくれたものか、ほっこりと湯気が立ち上っている。
    「これだけしかご用意できませんで」
    「いえ、ありがとうございます。かたじけない。あ、そうだ。娘さん、私の部屋に猫が……」
    「猫……? どこにですか?」
     言われて振り向くと、たった今までそこにいたはずの猫の姿がない。隠れる場所などありはしないのだが、あちこち視線をやるも、まるで夢か幻のように影も形も見当たらなかった。
    「おかしいな……勘違いかな」
    「ふふ……では、召し上がられたら器は廊下に出しておいてくださいませ。ごゆっくり」
    「承知した」
     食欲を唆る匂いに、ぐうと腹の虫が声を上げる。道中で握り飯を食ったきりだった。ここは英気を養うためにもしっかり食わなければ。文六がそう手を伸ばそうとした時、がっちゃん! と派手な音を立てて三毛猫が膳に体当たりをして来たではないか。やはり見間違いではなかったのだ。あまりの勢いに膳は引っくり返り、飯は全て畳にぶち撒けられてしまっている。
    「こら、何て勿体ねえことしやがるんでぃ!」
     思わず潜めた声で怒鳴りつけたものの、三毛猫は怯んだ様子もなく、それどころか逆にふしゃああっ! と威嚇の声を上げて総毛立ってみせた。まるで食べるなと言わんばかりの剣幕に、よもや毒でも盛られていたのか、と文六は転がる料理を見遣る。
     しかし、特別鼻が利く訳でもない彼にはさっぱり解らず、仕方なしに小窓から捨てて食べた体を装うことにした。せめて食器が割れていなかったのが幸いだ。
    ーー丑三つ刻まで少しでも身体を休めよう……
     行灯を消して刀を抱えたまま布団に入る。気づけば三毛猫の姿は再びどこかに消えてしまっていた。


    * * *


     いつの間にか眠り込んでいたのか、文六がはっと我に返った時部屋の中はすっかり暗くなってしまっていた。辺りは静まり返っており、再び吹き荒れる雨風が障子戸をかたかたと鳴らす以外他に、生き物の気配はない。案内してくれた娘や家人も寝入っているのだろう。
    ーーさて、今は何刻でぃ……?
     月が見えないせいでいまいち時間が計れない。
     しかし、身体の強張り具合からしてそれほど経ってはいないだろう。とすると、今はちょうど化物たちが蠢く頃合 いではあるまいか。が、耳をすませても、特に怪しい音は聞こえて来ない。
    ーーここが化物の巣窟だろうと言うアタリは、俺の勘違いであっただろうか……
     次第にそんな想いの方が強くなり、警戒心も集中力も薄れ始めた頃、
     ず……っ、……ず、
     何か重いものを引き摺るような、大きなものが這いずっているような、奇妙な音が文六の鼓膜を打った。はっと思わず息を飲み、こちらへと近づいて来るその気配を探りながら、ぎゅっと刀を握り締める。どっどっどっ、と早鐘を打つ鼓動が外へ漏れ聞こえているのではないか、と肝を冷やしながら唾を飲み込んだ。
     やがてその音は文六が寝ている部屋の前で、ぴたりと止まった。
    「…………」
     す、と音も立てずに開く襖。 途端、むわりと生臭いにおいが鼻を突く。
    ーー俺は眠っている……寝ているのだ……
     殺気を殺し、雑念を消し、必死に狸寝入りを決め込む。背中に突き刺さるようにじ、と注がれる視線を感じながらも、文六は近づいて来る者が一体何かを確かめようと神経を尖らせた。ぎ、と軋む畳の音。こちらに気づかれまいとしてか、向こうも慎重に息を潜めているらしい。
    「ふふ……よく眠っているようだ。一般盛られたとも知らずに」
     嗄れて皺くちゃに揉んだ紙のようなかさかさの声音ではあったものの、それは確かに先程の娘であった。一服、と言うのは出された食事のことか。三毛猫が引っくり返してしまったせいで文六は一口も食べず処分してしまったが、もしそうでなければ今頃敵地のど真ん中でこうなっていることなど露知らず、前後不覚であったに違いない。
    「道に迷ったなんて嘘をついてもあたしはお見通しさ……どうせまたあたしを退治に来た武芸者か何かだろう……何度寄越したって同じだって言うのが、まだ解らないらしい。そう言えば、この間の男は美味かったねぇ……若くて活きがよかったし、手足を捥いでも最期まで戦おうとした。強かった」
     そう嘲笑うように言いながら、娘であったモノは徐々にその真なる姿を露わにして行く。 みしみし、と皮膚の表面を覆って行く鱗、長く伸びて行く舌と胴ーーそれは紛れもなく、永遠を生きた大蛇あった。
    ーーああ、やはりこいつが……
     込み上げて溢れ出しそうになる想いをぐっと奥歯で噛み殺す。 萎えかけていた気合がしゃんと首をもたげたのを感じた。
    「さぁて、今宵の男はどんな味がするだろうかね?」
     ゆっくりと身体をくねらせ、大蛇がまさに躍りかかろうとした瞬間、
    「兄ぃの仇、覚悟!!」
     その隙を狙って跳ね起きた文六は、稲妻もかくや、と言わんばかりの鋭い一太刀を繰り出した。切っ先一閃、神速の抜刀は野生動物ですら躱すのは容易ではない。大蛇の横っ面を捉えた白刃は、見事にその上顎から頭部を刎ねた。どちゃり、と濡れた雑巾を叩きつけるような音を聞きながら、 血払いをし刀を納める。
     乱れそうになる呼吸を懸命に沈めた。
     道場では負けなし、師より免許皆伝を賜わろうとも、文六は生きたものを斬るのは初めてであった。摘み取ったものの重さが遅れてその手に伸しかかって来たようで、緊張から解放されたせいでか微かに震えている。
    ーー大丈夫……あれは悪しき化物……たくさんの罪なき人を喰った化物だ……
     じとりと滲んだ汗のせいで冷えた指先をぎゅっと握り締めた時、
    「ふふ……お前さんも、飯を食わなかったね?」
     大蛇の身体が倒れていないのをふと思い出した。慌てて振り向いた視線の先で、ずろりと娘の頭が傷口から生えて来る。
    「痛いじゃないのさ。 乱暴しないどくれよ」
    「この……化物がっ!」
    「おや……?」
     にい、と裂けた口で、蛇の胴で、娘は嗤った。
    「お前さんのその下げ緒……知ってるよ、見たことがあるよ。この前喰った男も同じものを持っていた」
    「俺は同門の文六だ! 兵右衛門兄ぃを殺したお前を、絶対許さない!!」
     だんっ、と力強く踏み込み、再度一刀。今度は違わずきれいに首を落とした。が、間髪入れずに跳ねた尾が文六の体躯に叩き込まれる。まるで大木か何かを叩きつけられたような勢いに、ぶち割った襖諸共もんどり打った。咄嗟に受け身は取ったがぐわん、と視界が揺れてすぐには立ち上がれないところへ、二度、三度、のたうつ尾が振り下ろされる。骨が軋み、内臓がやられたのか喉元を競り上がって来た血反吐を派手にぶちまけた。
    ーー何でまだ動けるんでぃ……斬っても斬っても死なねえ化物を相手に、 どうすりゃ兄ぃの仇が取れるんだ……
     速さも力も技も、大蛇の前では児戯に等しい。何年も重ねた鍛錬は所詮人の域を出はしないのだと言われているようで、絡みついて来る絶望がさらに文六の手足を重くした。
     ぐったりと横たわるその身体を締めつけ持ち上げながら、大蛇が高らかに哄笑する。
    「たかだか人間風情があたしを殺せるものか! お前さんもちゃんと喰ってあげるからね。 兄さんにはあたしの腹の中か地獄で再会しな!」
     ぐわ、とその顎が大きく開いた瞬間ーー
     暗闇の中、躍りかかった何かが大蛇の右目を大きく抉った。 ぎゃあ、と耳障りな悲鳴を上げて彼女が仰け反ったお陰で拘束が緩み、寸手のところで文六は転がった畳に逃れる。
    「貴っ様……!」
    「にゃあ」
     空中で華麗に一回転して目の前に降り立った小さな影は、何とどこかへ消えたと思っていた三毛猫だった。何をやっているんだと言いたげにこちらを軽く振り向いたその姿に、文六は小さく息を飲む。先程は気づかなかったが、その首には紅緋の下げ緒が巻かれていた。
    「兄ぃ……かい?」
    「にゃ」
     果たしてそれが正しいのかどうかは解らなかったが、再度狂ったように振り回される尾から猫を庇うように拾い上げて、文六は距離を取った。ともかく彼のおかげで自分はまだ生きている。
    ーーよく考えろ、あいつを倒す方法を……他に弱点がある、 再生回数の限度がある、あとは……
     たし、と三毛猫が助走の準備をするかのように前脚で畳を掻く。
     上から下へ、上から下へ。
     その時ふと、文六の脳裏を過ぎったものがあった。
     稽古がない日は畑仕事をしている田舎の村である。働き盛りの男はあちこちに駆り出され、兵右衛門も文六の家を手伝いに来てくれることが偶にあった。まだ入門したての子供にも分け隔てなく接してくれる青年だった。
     ある日、畑に毒蛇が出た。その目に射竦められて動けなかった文六を、兵右衛門が助けてくれたのだ。
    『いいか、文六。どんなに自分より強そうな相手でも、敵わなさそうな大きな相手でも、必ず対処の使用がある。勇気を持ってその術を取れるか、が強くなる秘訣だ。蛇は……』
    「おのれ、纏めて喰ってやる!!」
     怒り心頭、身体をくねらせてこちらへ迫る大蛇を真正面に見据え、文六は静かに呼吸する。
     左足を引いて半身構え、刀を握る手に無駄な力は要らない。喧しいほどだった雨風の音が消える。たし、と畳を搔く三毛猫の脚。左から右、の横ではなく上から下、の縦の線。 驚くほどゆっくりと己の間合いへ飛び込んで来る化物。
     胸の張り裂けそうなほどの痛みも、折れているらしい骨の痛みも、不思議なほどす、と遠ざかったような気がした。
    ーー蛇は……
    「『執念深いから頭を潰して縦に割る』」
     自然な呼吸と共に刀を抜き放つ。
     闇夜に光る白刃一閃、雷光よりも鮮やかに、懐へ入った大蛇の面を真っ二つに割った。 それでも化物の勢いは留まることなく、まるで自ら斬られに行ったようにそのまま二枚に下ろされる。しばらくびくびくとしつこく痙攣していたものの、やがてそれも収まり、ついぞくっついて動き出したり新しい身体が生えて来たりはしないまま、ようやく果てたようだった。
     それを確認して、文六はようやく安堵の溜息をつく。
     いつの間にか雨風はすっかりやんでおり、 それどころかばきりと見上げた先で天が罅割れ剥落したものだから、 ぎょっと再び目を剥かざるを得ない。しかし、澄んだ音と共に砕けたそれは文六の上に降り注ぐことはなく、宙の半ばで粉雪のように溶けて消えて行く。そのせいか辺りの景色がほわほわと淡い光の滲んだように揺らめき始め、瞬く間にすっかり様変わりしてしまった。
     豪勢な屋敷が消えたどころか、鬱蒼と枝葉を広げていた樹々も跡形もない。だだっ広い岩肌と土が広がる禿山を、東から顔を出し始めた朝日が照らし出している。
    「これは一体……」
    「ああ……お前のおかげで、ようやくこの狭っ苦しい箱庭から出られた」
     もう何年も聞いていないかのような兵右衛門の声にはっと振り向く。
     立派な庭園が広がっていたーー洒落た石灯篭があった辺りに、三毛猫が佇んでいる。つい、と機嫌がよさそうに斑の尻尾を振る様は、煙管を弄ぶ彼を思わせた。
    「ありがとうなぁ、文六」
     くるりと一度トンボを切って、何の感慨もなさそうに三毛猫は踵を返した。
    「兄ぃ、待っ……」
     追いかけようとした文六の目の前で、その姿はすう、と掻き消えてしまう。
    ーーああ……
     半ば予感していたものの、いよいよ認めざるを得なくなってそこまで歩み寄った。泥濘んだ土はまだ掘り返されていくらもない跡がある。がつ、とそこに指を突き立てると、文六は素手でその場所を掘り返し始めた。
     いくらもしない内に出て来たのは、大量の人骨の山だ。
    「…………」
     その中で紅緋の下げ緒が巻かれた頭蓋を拾い上げ、文六は泥に塗れて汚れたそれをぎゅうっと抱き締めた。
    ーー結局俺は、兄ぃに助けられっぱなしだ……
    「ありがとう、なんて……」
     生ぬるい風が駆けて行く。


    * * *


     その後、各地からの謝礼やら村人からの寄付やらで、その山には小さな寺が建った。
     身元が分かる遺体は家族の手で改めて葬られ、そうでなくとも手厚く埋葬されて、いまだに寺には訪れる者が絶えることはない。そのおかげか、以前のようなおどろおどろしい気配は払拭されたようだ。
     たった一人でその寺を切り盛りする和尚は、経を上げる際、何故かいつも数珠と共に紅緋の下げ緒を持っていると言う。


    以上、完。