拠点に戻る前に寄りたい場所がある、と珍しくカゲトラが言うもので、二人は玖街の外に蒸気四輪を停めて中へ入った。
     相変わらず、この国で一番治安の悪いこの区画は、隊服姿の二人を見るなり威嚇するような眼差しを投げて来る者で溢れていたが、以前のように問答無用で襲いかかって来ることは殆どなくなった。何度か警邏巡回をして顔を覚えてくれている者もいるだろうし、何よりカゲトラがこの街出身だと顔役の一人であるコチョウから伝達があったのだろう。
     やたらめったら難癖をつけてしょっ引こうとしている訳ではないのだ、と一定の理解はしてくれたらしく、何か問えば普通に受け答えして貰えるほどには住人の態度は軟化していた。
     けれど吐き気を催すほどの悪臭と、陽が差さぬ故の独特の昏さは街全体を深く覆っている。活気があるように見えても、人々のその眼差しは明日をも知れぬ不安の影で曇っている。
     言葉では表せないそのどんよりとした澱みを、少なくとも物心着くまではここで育ったのであろうカゲトラが微塵も帯びていないのは、ある意味不思議ではあった。
     当の本人は猥雑に入り組んだ路地を物ともせず、慣れた調子で歩き煙草をくゆらせている。
    「一体どこに向かっておるんじゃ?」
    「まぁまぁ……もうちょいで着くって」
     立ち並ぶ派手な電飾の看板、店先に吊るされた商品と剥がれた古い尋ね人の貼紙、剥き出しの鉄の骨組、喧騒、ゴミ溜めと人と、怒声、音楽、呼び込みーーカゲトラが頭一つ抜きん出ているおかげで追うのは難しくないが、こうしてちゃんと街中を見て回れるようになったのは最近であるから、ともすればナナキは置いて行かれそうになってしまう。
     壊れた駆動から噴き上がる白い蒸気、クラクション、原色の安っぽい服。
     と、不意に流れのまま通り過ぎそうだったところ腕を掴まれて、ナナキは今にも崩落しそうな雑居ビルの階段を下った。下卑た壁の落書きに眉をひそめてから、呑気に鼻歌など歌っているカゲトラの後に続く。
     しかめっ面でいつも怒っているように眉間に皺が常駐しているこの男にしては珍しく、機嫌がよいらしい。
    「よお、例のやつ受け取りに来たぜ」
     きい、と嫌な音を立てる古びた扉を開けた先は、まるで地下壕のような窖だった。
     かび臭さはあるものの、埃っぽくなかったのがせめての救いか。辛うじて灯された瓦斯灯は最小限に絞られ、まるで土竜にでもなったかのような狭苦しさだ。その最たる原因になっているのが、がらくただか何だかよく解らないものが詰め込まれた棚だろう。天井から床までみっちり物があるせいで、ただでさえ広くない空間を圧迫している。
    「ああ、お客サン! その辺触らないでネ、ドカン! なったら私困るヨ」
     奥から響いた片言の機械合成音声。薄闇の中から姿を現したのは随分小柄な人影だった。が、それを見たナナキは、ぎょっと思わず半歩引いてしまいそうになった。
     まず目についたのは鳥の嘴のような大仰な仮面と、不似合いな作業着。分厚い手袋を幾重にも重ねているらしく、均衡の取れていない手の大きさがいかにも奇妙だ。どたどたと喧しい足音はこれまた非合理的な革長靴のせいだろう。二人の胸辺りまでしか身の丈がないため子供かとも思ったが、仕草を見る限りではそれなりに歳はいっているようだ。
     彼がここの主人らしい。
     カゲトラは勝手知ったる風に気安く片手を上げ、
    「よお、クロガネ。この前頼んどいた奴どうなった?」


    →続く