現ヒノモト帝国軍の全指揮権を掌握する総督にして、執政の最高責任者たる帝ーーこの国の頂に立つ男、金烏(きんう)。
     カゲトラが想像していたよりも遥かに歳若く、自分といくらも変わらないように見えた。夜闇のごとく艷やかな黒髪と双眸、穏やかな笑みを浮かべた容貌は紳士的ではあったが、軍部の荒くれたちを抑えておくには些か頼りなく思える。優男の部類だろう。
    「…………」
     金烏の双眸もまた各将を飛び越えて、カゲトラに注がれていた。ゆっくりと軍章の刻まれた帽子を脱いでから、大きく息を吸う。
    ーー目を、逸らすな……
     そう告げる本能が、いつだって正しい。
    「ヒノモト帝国陸軍第十三大隊所属、カゲトラ一等兵。ただいま参上仕りました。お初にお目にかかります」
    「同じく、ナナキ軍曹。参上仕りました」
    「うん、わざわざ遠いところから悪かったね。もう少しこっちへ来てくれ」
     にこり、と相好を崩して人好きのする笑みを浮かべる金烏。
     が、一人の男が音もなく席を立った。かと思った瞬間、目にも止まらぬ速さで二人の前に立ち塞がる。
    「お待ち下さい、陛下」
    「うん?」
    「この者、不届千万にも帯刀しておりまする。おい、今すぐ外せ」
     押し殺した声で高圧的に言われ、カゲトラの眉間にみしりと深い皺が刻まれた。が、相手は上官だとか、装備の詳細など知らぬかもしれないだとか、考えるくらいの理性は残っていたのだろう。
    「お言葉ですが」
     男に一瞥すら寄越さず真っ直ぐに金烏を見据えたまま、カゲトラは大喝した。よく通る低音が、そこに込められた切っ先のような覇気が、びりびりと空気を震わせ周囲へ威嚇の牙を剥く。
    「我々一兵卒は常に前線にあり、敵に向かって剣を振るいます。よって、この腰に佩いた得物までも含めてが、我々の正式な隊装です」
     ざわ、と空気が波打った。当然だ。軍帽は辛うじて脱いでいたものの、佩刀したまま現人神と謁見するなど言語道断ーーヒノモト帝国史上あり得ない態度である。
     華族は元より士族が魂の半身とも言うべき愛刀をこの建物内で携えないのは、忠誠を示すためであるのは基より、要らぬ諍いを起こさない互いの牽制のためでもあるのだ。
     その暗黙の前提を平民ごときに木っ端微塵にされて、おいそれと黙っている訳にはいかない。
    「馬鹿か小僧! ここは戦場ではない、御前だ! 控えて剣を置け、無礼者!!」
    「産まれ落ちてよりこの方、俺にとっては世界の全てが戦場であります。万が一にも」
     席を蹴立てて怒声を上げる別の壮年の男にも目をくれず、カゲトラの視線は面白がるように壇上からこちらを見下ろす総督の黒瞳を縫い止めている。それはまるで、先に逸らした方が瞬きをした方が負けて取って喰われるとでも言うような、
    「万が一にも、今、この瞬間ーーそのお命を獲らんとする不逞の輩がこの場に沸いて出たら、やれ刀はどこじゃと探している内に、総督の首が落ちます故」
    「ふっふっ……それは困るなぁ」
     叩きつけられたーーぎりぎり殺気ではない闘気に気づいているのかいないのか、金烏はもう一度にこりと人懐っこい笑みを浮かべてみせた。
    「貴様、よもや我等の中に陛下を謀る者が潜んでいるとでも言いたいのか!? そう言う貴様こそ……」
    「まあまあ、白河。彼だって、この場で国の全将軍を敵に回して暴れるほど馬鹿じゃないさ」
     カゲトラの気質をよく知る者なら「いや、時と場合による」と言うだろうが、彼は頭の言うことに意義を申し立てる性質の男ではないらしかった。低頭して、再び着席する。ちらりと促された男も不承不承と言った体で席へと戻り、二人は揃って円卓を挟み総督と向かい合った。
    「さて、本題に入ろう」
     鷹揚な口調でそう言うと、金烏はゆっくりと脚を組み替えた。
    「君を呼んだのは他でもない。私は三日後、廃棄区画の現状視察のために現地を訪れる予定になっている。よって、この総督府からの護衛を頼みたい」
    「護衛は第一大隊の仕事でしょう。俺たちは陰人とナレノハテ掃討が任務だ」
     歯に衣着せぬカゲトラの物言いに居並ぶ者たちは皆眉を寄せたものの、抗議の声が上がらなかったのはそれが下手な謙遜や及び腰とは違う、淡々と事実を紡いだものだったからだろう。
     兼ねてより、親衛隊を務める第一大隊はそのために血の滲むような厳しい訓練と厳選された血統からのみ選抜された、特別選良(エリート)部隊だ。それを総督自ら蔑ろにされては、堪ったものではない。その辺を弁えている、と言うよりは『護る』姿勢が性に合わないが故の発言ではあったが。
    「無論、彼らは私を護るために同行する。君はその彼らを守るための盾だ」
    「万が一陰人(オンヌ)が出現した場合は対処せよ、と言うことですか」
    「そう。この前は玖街にも出現したそうじゃないか。今までは廃棄区画(みずぎわ)で収まってたのに……だから、ここから戻って来るまで一緒に行って欲しい。駄目かい?」
    「…………」
     ナナキがちらりとカゲトラの横顔を伺うと、苦虫を噛み潰すような嫌そうな顔をしていた。正直黒須を介しての『命令』であったなら、一も二もなく断っただろう。
     個人的な鍛錬と巡回だけの平穏で退屈な日々では実戦の勘と腕が鈍るとは言え、決してカゲトラは積極的に関わりを持って任務に励みたい訳ではない。喧嘩は好きでも殺し合いがしたい訳ではないのだ。 無論、いざと言う時躊躇するようなぬるさでは己の方が危ないため一度戦場に立てば手を汚すこともある。が、他の隊員ように泣いて許しを請う相手を追い縋って斬り刻んだりなどはしない。
     しばし逡巡するように口を引き結んでから、カゲトラはナナキの方を見遣った。
     悩んで意見を求めてのことではない。最初から好きにしろ、と告げていたことを再度確認するような視線に、小さく頷く。
     今さら是も否もない。
     こう言う言い方をこの男は嫌うだろうが、一人であの部屋から出ることの叶わないナナキにとって、カゲトラの選択が全てだ。
    「……解りました。お供します」
    「そう、よかっ」
    「ただし」
     事もあろうか金烏の声を遮って、一層声高にはっきりと告げる。
    「ただし、十三大隊は俺と、このナナキ。『二人』でなければ同行しません」


    →続く