長年ヤニと埃と何やかんやの汚れが蓄積して、すっかり元の輝きなど想像も出来ないガラスカウンターの上に差し出されたものを見て、カオ・シールーは読んでいた新聞からじろりと視線を上げた。
確認せずとも、ボソボソとした喋り方でトワだと言うのは解っている。
置かれた免許証と保険証、携帯端末が無論彼自身のものではないことも。
「何でぇ、何でも屋のワンコか……飼い主はどうしたぃ?」
老眼鏡をかけ直さずとも、エンの姿がないことは明白だ。そうでなければ、この極度の人見知りであるトワはなるべく他人と口をきこうとはしない。
「エンは……今、別の『仕事』」
「ああ……」
チャリ、と首から下げたドッグタグが揺れて寂しげな音を立てる。目には見えないはずのしょげた耳や尻尾がヘタレているのが見えた気がして、カオは溜息をこぼした。
「それでこのお使いって訳かぃ……健気なこって。こいつどこで拾って来た? こう言うのは、クラン通さねえとうるせえんだよ」
「ちゃんと双子からの依頼」
ならば問題はないか、と置かれたものを手に取る。死んだ魚のような虚ろな眼差しで写真に写っているのは、まだ若い男だった。二十歳になるかならないか……ただし、写真からも伺えてしまうほど健康という言葉からは程遠そうだ。この街ではよく見る類の顔だった。
「こいつはどうした?」
「さっき死んだ……ゲート、で」
「そう言えば、今日の担当は玄武クランか」
この人工島タイクーンは本土と繋がる唯一の交通経路として、数十キロに及ぶ馬鹿長い橋がかかっている。万が一の時にはここを陥落してしまえばこの牢獄のような犯罪都市は孤立無援、いかようにでも殲滅出来ると踏んでのことだろう。
実際どのくらいあちら側と行き来があるかと言えば、公的なものは年に二回ほどで無用の長物と言ってしまっても過言ではあるまい。
決して立入禁止が申し渡されている訳ではない。
けれど、島の入口に建っている堅牢な鉄扉のついた門を通ろうとする者は、あちら側で生きていられなくなったクズか自殺志願者くらいなものだ。何しろ島に入った者はいても出た者はいないのである。
そのため、各四大クランが交代で部外者が間違って入り込まないよう門番を務めることになっているのだが、それはきちんと機能しているとは言い難かった。何かの間違いで数十キロの橋を渡って来る者など今までいた試しはないからだ。
恐らくこの青年も自分で死を選ぶ勇気こそないものの、ここへくれば間違いなく死ねると踏んで腹は決めていただろう。
「免許証と保険証はいつもの額でいいな。携帯端末はこりゃ、ダメだ。一世代前のやつなぞ今時誰も買わんよ。中のSIMだけだな」
「うー……」
エンの煙草三カートンと発泡酒二缶、ジュース二缶をトントンと並べてやると、トワは困ったように上着の裾を握り締めた。丸ごと買い取ってもらえると思っていたのだろう。こちらだって商売だ、様々な手数料と上納金を考えればギリギリである。
「カオさ……」
「…………ナイショだぞ」
そう言って、トワの好きなチョコバーをつけてやると、ぱあと表情が無邪気に晴れた。
「ありがと」
いそいそと背負っていたディパックにそれらをしまい込みながら、
「その人、名前だけはまだ生きてくんだね」
「まあ、そうだな」
人は二度死ぬ、と言う話をこの子は信じているのだろうか。一度目は肉体の死、二度目は全ての人から名前を忘れられた時に訪れる存在の死。
「だがまあ……」
くわえた煙草に火をつけて、細く紫煙を吐き出しながらカオは、今はもうとっくに海の藻屑と化しているだろう青年を見やった。
「ここじゃあ、名前なんて大した意味はないだろう?」
産まれた時に授けられた本当の名前を名乗っている者など、両手で足りることだろう。ないと不便だから便宜上何某かを称しているだけで、そんなものはただの識別番号と変わりはしない。
今日Aであったものが明日はBかもしれない、そんな街だ。
本人ではない何某も腐るほど生きている。
「そんなこと、ない」
ぎゅ、とドッグタグを握り締めながら、トワは柔らかな笑みを浮かべてみせる。
「そんなことないよ」
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