数々のラクガキや何度もビラが貼られ剥がされをくり返された狭いコンクリート打ちっぱなしの階段を降りると、一番下の段にその大柄な身体を縮こませるようにしてトワがちょこんと座り込んでいる。
     足音でこちらに気づいているだろうに、呼ばれるまで振り向いてはならないとでも思っているのかその瞬間をそわそわと伺っている気配。
    ーーマジ忠犬……
     思わず苦笑を浮かべてから、エンは緩く紫煙を吐き出した。
    「トーワー、終わったよ」
     途端、勢いよく立ち上がってまだ数段上にいるこちらを仰ぎ見た青年は、そのまま踵を返して駆け上がって来た。ばっ、と袖を捲られ、襟を裾を引っ張って体躯を確認されるのは、傷がないかを目で見ないと安心出来ないからだろう。何度か無茶をやる客にも当たっているから余計にだ。
     ほ、としたように安堵の息をこぼすものだから、フードを被ったままの頭を抱き寄せて宥めるようにポンポンと叩いてやる。
    「ゴメンて。延長あっただけだから心配ない。お使いは?」
    「……終わった。けど」
    「うん?」
    「カオさ……端末、ダメて」
    「あー……ケチくせえじじい。あいつ絶対ぇバラして売れるルート持ってるよ。まあいいか……ありがとな、トワ。お疲れ」
     スン、とトワの鼻が鳴る。
     ぎゅ、と背中に回った腕に力が込められた。
    「………………」
    「トワ、外」
    「…………ん」
     渋々拘束が解かれ、しゅんと俯いた顔はどんな表情が浮かべられているのかエンからは見えなくなる。けれど、ストンと力なく落ちた手を取ると思いがけない強さで握り返された。
     あの日、手を伸ばしたのはエンで。
     あの時、この手を取ったのはトワで。
    「ほら、帰るぞ」
     建て増しに建て増しを重ねた違法改築の雑居ビルの一室。とても事務所などと呼べるほどの広さはない。
     昔はまだもう少し余裕があったものだが十年ーーそう、十年だーー小さかった仔犬はエンよりも大きくなってしまった。
     手狭な2LDK。
     応接用のソファーとローテーブル、備え付けの小さなキッチンと狭い風呂とそれぞれの部屋と。
     何か言いたげに、もだもだと上着の裾を握ったり離したり皺くちゃにしているトワのドッグタグを無造作に引っ張る。
     たたらを踏んで近づいたいつも長い前髪に隠れがちな切長の双眸を見上げ、エンは悪い笑みを浮かべてみせた。
    「それでもお前は、『やめろ』とは言わないよね」
    「………………エ、ンは」
     見る見る内に赤くなる頬と耳朶と。
     困ったように目を逸らしながら、トワはもごもごとくぐもった調子で言葉を紡ぐ。
    「オレとは『シない』ってゆった」
    「そうだよ」
    「だからコレは……その代わりで、たまたま……利益が、い、一致したから……お金貰うだけだ、って」
    「逆だけど。まー手段が目的になった、みたいな? そこはどうでもいいけど」
     そのまま前髪をかき上げて、額にそっと口唇を押しつける。
    「お前とは絶対シない。その他大勢とは違う、俺の特別だから」
    「…………オレが、シたいってゆっても?」
    「ダメ」
    「………………」
    「だからお前にだけこうしていっぱいキスしてる」
     ムズがるような顔をするトワを窘めるように宥めるように、わざと音を立てながら瞼へ鼻先へ頬へ耳朶へ首筋へーーそして最後に口唇へ。
     熱く溢れる吐息を喰らうように、噛みつかれ分厚い舌が歯列を割って入って来る。
     攫われ、絡めて柔く吸われ、ああ一生懸命求められているなあと思う度、ぞくぞくと甘い快楽が身体を痺れされ酔わせて理性を溶かして行くのはエンも同じだ。
     トワにとっての世界はあの日から全部エンで出来ている。そう教え、覚えさせ、導いて来た。
    「ん……っ、ぅ」
     だからこそこれ以上は進まない。
     もっと、とせがむように追い縋る口唇を解放するとこぼれた銀糸が刹那二人を繋ぐ。
    「トワ」
     残酷だと解っていながら、
     酷く傲慢だと解っていながら、
     それでも。
    「お前は、お前だけは……どうでもいい奴らにならないでな」