主の命令を否と思う意志など、持つことは許されない。
嫌だと首を横に振る自由など、持つことは許されない。
それは己の存在意義をまるごと否定することと同義だ。
「違う……っ、私は!」
敵を殲滅させるために作られた。
傷つけ、奪い、踏みにじり、ヒトの代わりにヒトを殺して、その罪悪を肩代わりするために作られた。ヒトの代わりに犠牲になって、同胞は戦地で散った。あるいは、お前たちはもう必要ないと、廃棄処分になった。
同じように生きていることに変わりはないはずなのに、紛い物の命だと紛い物の人間だと、使い捨てられ顧みられることなど、ただの一度もなかった。
同じであれ、とそう作ったのは人間であるはずなのに。
「じゃあ刺せよ」
「…………」
「俺は侵入者だぜ。お前の主人の敵だ。殺していい相手だ」
「……敵……」
「何度も取り逃がしたら処分されるのはお前の方だろう? 自分が生き残るためだ。刺せよ」
静かにそう告げる閃光とは裏腹に、魔導人形のナイフを握る手は葛藤しているようにぶるぶると震えている。彼の蒼い双眸と閃光の紅い双眸がしばし交錯する。
ぎり、と奥歯を噛み締めて腹を決めたように、魔導人形は再度ナイフを振りかぶった。一息に振り下ろす。
「…………」
けれど、その切っ先が突き立てられたのは、閃光の胸でも腹でもなく、顔のすぐ横だった。浅く切り裂かれた頬からつう、と血が伝い、それを機に魔導人形は覆い被さるように頽れた。それはまるで、幼い子供が親に泣いて縋る仕草に酷く似ていて、閃光は己と正反対の柔らかな金色の髪をくしゃりと撫でた。
「…………何で、」
「お前はちゃんと、俺よりヒトだよ」
こんなことは初めてだ。
殺してはならない、と己では把握出来ない何かがしきりと引き留める感覚は、未だかつて覚えたことがない。
聴覚に訴えかけて来る閃光の鼓動に、他と違う点など見つからない。人工皮膚越しに感じる体温はやや高いが、それだけだ。煙草ーー赤のマルボロだーーの匂い。一個体として、特別なところなどーーいや、僅か滲んだその血は、
「いい加減重てえ」
涙じみた雫が溢れ出さなくなったのを見越したように、閃光の手が離れる。その不機嫌そうな声に思考回路を断ち切られて、魔導人形ははっと我に返ったように顔を上げた。
「す、すみません!」
「もういいだろ。お前が殺したかろうと殺したくなかろうと、俺はこいつをもらって行く。どうせあのハゲにゃ持ってる意味なんかねえんだ」
脇に退いた魔導人形には目もくれず、立ち上がって服の汚れを払った閃光は、懐から煙草を取り出して火をつけた。
そのまま止められないのをいいことに、真っ直ぐに社長室の扉横に歩み寄り、解錠の手続きを進めて行く。黒革手袋の表面に仕込んでいたらしい掌紋認証、サングラスの下の網膜認証をらくらく突破し、あとは音声認証と長ったらしいジェフリーしか知らないはずの解錠コードを入力するだけだ。
しかし、それも既に入手済みなのだろう。電子ボタンを押す手に迷いはない。
「…………壊(ころ)してください」
今までに聞いたことがないくらい淡々とした口調で請う魔導人形に、閃光は一瞬セキュリティーパネルに走らせる指をぴたりと止めた。けれど聞こえなかったふりをして、長い解除コードを黙々と打ち込んで行く。
こちらにも別回路の監視カメラがしかけられていたようで、鳴り響く警報は既に最強警備をこちらが突破したことを、警備室に報せているだろう。増援の追っ手が来るのは何分後かーーもたもたしている時間はない。
けれど、答えを返さない背中に魔導人形はなおも言葉を紡ぐ。
「虫のいい話なのは承知の上です。でも、私はこのまま廃棄される……どうせなら、私をちゃんと『ヒト』として扱ってくれた貴方の手で最期を迎えたいのです。かつての同朋のように、道具のままで果てたくない」
『解除コード認証。お名前をどうぞ』
「ジェフリー・ロバーツ」
鋭い銃声が轟いたのは、ほぼ同時。
閃光が振り向きもせずに撃ち放った弾丸は、コンマのずれもなく魔導人形の右耳朶に取りつけられていたGPS装置を粉砕した。
「な…………」
「ほら、違わないだろう? お前はやっぱり殺したくねえのさ」
肩越しに振り向いて、にやりと悪辣な笑みを浮かべてみせる閃光。
「二度と俺の前でそう言うことを口にするな。生き方は自分(テメー)で選ぶもんだ。死ぬのはいつでも出来る」
社長室へ押し入ると、閃光は迷いなく大きなマホガニーの執務机に足を向けた。移動式サイドチェストをぐいと脇に押しやると、そこには床に埋め込む形で金庫が設置されている。ダイヤル式錠の暗証番号はジェフリーの生年月日だ。
ーー今時こんなクソみたいなセキュリティー……
最後の最後がお粗末過ぎて拍子抜けではあるが、ジェフリーの方からしてみれば魔導人形を突破されることは想定外なのだろう。
大仰な金庫の中に収められていたのは、写真と同じ置時計のみだった。
深い蒼色の本体に金の装飾が施された豪奢な代物だ。そこに宿る〈魔法術〉式は読めないが、マナの気配は感じられる。本物であることを確認すると、閃光は手早く懐から梱包用の布を取り出して、獲物を丁寧に包んだ。
ゆっくりと踵を返して部屋を出ると、ようやく魔導人形に向き直る。
未だに動かず座り込んだままの彼へ、
「ここにいられねえなら、俺と来いよ。っつーか、さっきも言った通りもらう気で来たんだ。まぁ、嫌ってなら仕方ねえけど。無理矢理は性に合わねえからな」
無造作に差し出された黒革手袋の手を驚いて見遣る。
起動して数十年ーー己が見聞きし体験して来た出来事は、全て余すところなく記憶している魔導人形であったが、その始まりよりこの方、こちらの意思を問うて来た者など、ただの一人もいなかった。
彼らは命じるだけで、否も応もなかったのだ。
枷は外れた。
黙って惨めな最期を受け入れたくないのなら、
ーー貴方は、私に新しい生き方を選ばせてくれるのか……ここで終わりにしなくていい、のか?
濃いサングラス越しの強い瞳。
まだ少年の域を完全に抜けてはいない彼と共に行けば、これまでとは違う自分になれるのだろうか? 自分の望む自分になれるのだろうか?
躊躇は、ほんの一瞬だった。
「はい……よろしくお願いします」
いいんですか? とは訊かなかった。訊いたところで彼は不機嫌そうに「お前が決めることだろう」としか返してくれない気がしたからだ。
差し出された手を借りて立ち上がると、閃光はまるで悪戯をしかける子供のような顔で笑った。そうしていると、歳相応に見えた。
「随分とでけぇ『ついで』だ」
魔導人形もつられて破顔した。恐らく生まれて初めての、心からの笑顔だった。
→続く