22.

     とは言え、二人は同じ拠点にはあまり留まらない。
     メインとするマンションでもせいぜいが一週間ほどで、間にホテルや旅館を挟んだりしながら、閃光は点々と移動する。忙しない生活だが、根を下ろして居場所を特定されると言うのは、この生業で命取りになりかねないからだ。
     ロキが表立って動くことは殆んどないとは言え、裏側が総崩れした経営を立て直すのにトイボックスが手間取っているとは言え、決して彼らが金看板を失墜させた何の後ろ盾も持たない若造をこのまま黙って見過ごすはずはない。
     それでも少しずつ少しずつ、共に過ごす時間を重ねて行く度に、二人の息はぴたりと合うようになって来た。思うところに寸分違わず差し出される手、攻撃ーーほんの僅かでも一呼吸でもズレたら危うい綱渡りのようなそれを、全幅の信頼をもって背を預けることは、これ以上なく心地が良かった。
     そうして着実に実績を重ねることで、『怪盗バレット』の名前が裏社会に雷鳴のごとく轟くまで、それほど時間はかからなかった。
     そんなある日のこと。
    ーー黒……これも黒、これも……
     とあるアジトで過ごして三日目。
     そろそろ移動すると言われる前に、溜め込まれていた汚れ物を洗濯機の中に放り込みながら、ロキは淡々と確認の目視をしていく。酷い汚れはないか、ほつれたり破けたりしそうなものはないか、色落ちしそうなものはないか、エトセトラエトセトラ。几帳面そうに見える閃光は存外面倒くさがりなのか、極端にきれい好きと言う訳ではないからか、あまり小まめに洗濯機を回さない。
     今までは自分一人だったから勿体ない、と言うこともあるだろうが、ロキはそれをあまり好ましく思わない性質だった。人間の目では視認出来ない汚れは(例え閃光の嗅覚が人並外れて優れていたとしても、だ)、時間が経てばそれだけ落ちにくくなる。
     おかげでと言うか何と言うか、仕事の補佐をするよりも家事や身の回りの世話をしている時間の方が多い気がする。勿論駆け出しの主人にとっては、実際の案件に動くよりも、調べ物や探し物が多いのは致し方ないことだろう。それに真っ当な方の仕事もいろいろ立て込んでいるらしい。
    ーーそれにしても……黒ばっかりだ……
     変装などに使う衣装を除いた閃光の私服は、びっくりするほど黒尽くめである。どれも同じものかと思いきや、デザインや材質が微妙に違うので、適当に選んでいるのではないようだ。あとはせいぜい小物や差し色に白かダークカラーの比較的トーンの低いものがあるだけで、ここまで徹底されていると呆れるを通り越して感心すらしてしまう。
    ーーこんなの、まるで喪服だな……
     それが誰のためであるかを訊く権利は、今のところ自分にはない。
     ロキは小さく溜息をついて自分の洗濯物も一緒に放り込むと、洗剤を計って自動運転のスイッチを入れた。音もなくぶるりと身体を振るわせて機械が動き出したのを確認すると、そっと蓋の辺りを撫でてから踵を返す。
     続いていろんなものがごちゃごちゃと積まれた閃光の私室を除いて、掃除機をかける。
    ーーそう言えば……閃光はどのアジトにも物が少ない……
     生活必需品はあるものの、昔から大切にしているような思い出の品だとか写真だとか、とかく過去積み重ねて来たであろう時間を感じさせるものが、ない。
     どんな家庭で育ったのだろうか?
     どんな子供だったのだろうか?
     まだ十代であろうにこんな世界にどっぷり浸かり、泥棒稼業を生業にするーーどんな経緯を辿ったのか詮索すべきではないことは重々承知しているが、主人であり相方であるはずの彼のことを、何一つ知らないままだ。
    ーー話してくれる日が……いつか来るんだろうか?
     そうして自分の罪を告白する日も、また。
     開けていた窓を閉めようとして、ロキはぎょっと顔を引きつらせた。いつの間にか雨が降り出している。小雨であっても本来なら気づくべきだった。
    「あー……これは干せないな……」
     思考に没頭し過ぎていたようだ。
     こちらの人格に切り替えをしてから、ますますその傾向は強まっているようで、〇か一かで判別しにくいものが日々増えて行く。閃光は「別にいいんじゃねえの? そう言うもんだろ……割り切れないことばっかりだ、世の中ってのは」と言っていたが。
     瞬間ーー
     ガタン……っ! とその主人の私室で、何かが倒れたような派手な音が響いた。
    「…………っ!?」
     禁じられている訳ではなかったが、余程のことがない限りロキは立ち入らないようにしていた。プライベートな空間と言うものは、デリケートでとても大事な部分だ。しかし、今のは積み上げた資料が雪崩を起こした、などと言う可愛いものではあるまい。
    ーーもしかして、居場所が奴らにバレた!?
    「閃光……っ!!」
     慌てて扉を開け部屋に足を踏み入れると、フローリングの床に閃光が蹲っているではないか。出血はない。傷を負った訳ではなさそうだが、抱き起こそうと駆け寄ってロキは思わずぎょっとした。
     かひゅうかひゅう、と上擦ったような呼吸音の割に、閃光の顔面はびっしりと冷や汗で濡れて蒼白だ。
    ーー過換気症候群の発作……!!
     咄嗟に症状を判断し、辺りを見回す。放り出されたままになっていた上着からハンカチを抜き取り、鼻と口周りを緩く覆う。必要以上に二酸化炭素を吐き出しているせいで、身体が軽く痙攣していた。
    「閃光……大丈夫です、落ち着いて。ゆっくり呼吸して下さい。吸って……吐いて……吸って……もっとゆっくり」
     合わせやすいように背中を撫でながら促す。ロキは初めてこの時、己の身体が熱を有していないことを悔しく思った。生物は他の個体の温もりに安堵するように出来ている。体温のない無機質な身体では、閃光の緊張を解いてやることは出来ないのだ。
    「一度呼吸を止めて。ゆっくり……大丈夫です。僕はここにいます。貴方を傷つけるものは何もない」
     主人は身体的に何か疾患を持っていた訳ではない。
     突如病に冒された訳でもない。
     ストレス、疲労ーー考えられる要因が全くない訳ではないが、そこまで酷くなるほど自分を追い込んでいたようには見えなかった。
    ーーとすると、心的外傷(トラウマ)……一体、今までと何が違って……
     ふと、さ迷わせていた視線が吸い寄せられるように窓の外を捉える。いつの間にか勢いを増して降り注ぐ雨が、窓を叩いていた。
    ーーああ、そうか……閃光と逢ってから初めて雨の日だ……
     黒革手袋の手が、ロキの胸倉をぎゅう、と掴んで握り締める。まるで本当にそこにいるのか確かめるように、ちゃんと動いているのを確かめるように。
     しばらくすると、ようやく落ち着いたものか閃光の呼吸は通常のリズムを取り戻した。冷や汗をぞんざいに拭って立ち上がる。それでも随分なエネルギーを消費したのだろう。顔色は悪いままだった。
    「悪い……もう、大丈夫だ」
    「少し横になった方がいいですよ。別に急ぎの仕事がある訳じゃないでしょう? ホットミルクでも作ります」
     一瞬、虚を突かれたように目を丸くしてから、閃光は珍しく柔い笑みを浮かべた。
    「ありがとう……懐かしいな」
    「え……?」
    「ああ、いや……昔は悪い夢で魘されて起きる度に、ジジイが作ってくれたんだ。落ち着くから、っつってさ」
    「…………そうですか」
     あまり自分のことを話さない閃光が、殆んど初めてと言っても過言ではない出逢う前のことを口にしてくれたのが嬉しくて、ロキも思わず笑みを浮かべる。
    「もう、平気だと……思ってたんだがな」
     そう自嘲する根幹の出来事を、ロキは知らない。
     けれど、いつかその忘れ得ない記憶も抱えたものも、分かち合って行けるように、少しずつ彼のことを知って行きたい、と思った。


    * * *

    →続く