7.

     いろはとの接触から三日後の夜ーーオフィス街の明かりも大半が落ち、日付が変わろうかとする時刻。
     それでも完全なる静寂には程遠い喧騒を眼下に見下ろしながら、閃光は細く紫煙を吐き出した。地上十五階建てビルの屋上は吹きすさぶ風の勢いも強く、瞬く間にそれを掻き消し通り抜けて行く。
    ーー緊張しねえ……って、言ったら嘘だな……
     低く、深く息を吐く。
     軽い柔軟。強張った堅苦しさのない身体は、いつも通り動きそうだ。少し鼓動は早めだが、このくらいのピリリとした空気は必要だろう。
     研ぎ澄まされた五感もフル稼働、装備も抜かりはない。
    ーー大丈夫……
     幸い今夜は薄曇りだ。道行く人でわざわざ頭上を見上げる物好きもいないだろう。
     それよりも気にかけなければならないのは、ニ十四時間三百六十五日その目を光らせることをやめない警備システムの方だ。
     一応カメラには仕掛けを施してダミー映像を流すように切り替えたものの、赤外線センサーまでは手が回らなかった。それに常時画面の前に座っている訳にも行かないから、万が一権限を奪い返された時はアウトだ。逆にそちらはそのままの方がいい。
    ーー全部を一人でやるには、知識も技術も全然足りてねえな……
     フィルター近くまで吸いつけて短くなった煙草を携帯灰皿にねじ込むと、閃光はちらりと腕時計に視線を走らせた。二十三時五十七分、零時からの勤務交代のための短い引継の申し送りが行われている頃合いだ。
     ほんの一瞬だけ、侵入に対する警備が緩む絶好の機会(チャンス)。
     空調設備の大きな排気ファンが回転する格子を外す。先日清掃員を装って忍び込んだ時に、予め螺子を緩めておいたのだ。タイミングを見計らって慎重にダクトを下り、そこからは狭い空間を匍匐前進で目的の最寄り通路まで進む。由緒正しい往年の侵入手口が、こんな時代になっても通用するのは最早お笑い種であったが、だからこそ案外有効なのかもしれない。
     けれど、蜘蛛の巣こそ張ってはいなかったものの、絶えず乾いた埃っぽい風を真正面から浴び続けるのは、そこそこ難儀な行為であった。何度かこぼれそうになったくしゃみを噛み殺しながら進むこと数分。マーカーをつけておいたパネルを発見すると、その下の気配を探ってから閃光はぱかりと薄い鉄板を外した。
    ーーよし、誰もいねえ……
     サングラスの右柄をほんの少しだけ捻ると、途端に視界が切り替わる。縦横無尽に走る赤い線ーー無人になる夜間だけオンにされる赤外線センサーだが、粗い目のおかげで見えていれば躱すことはさほど難しくない。
     それでも真っ直ぐに飛び降りる訳には行かず、一度空中で身体を捻ってから上手い具合に滑り込む。僅かに靴底がきゅ、と音を立てたせいでどっと冷や汗が背中を濡らしたが、幸いまだ交代要員が来るまで時間はある。社長室はもう目の前だ。
    ーー金庫は最奥、デスクの移動式サイドチェストの下……ただのダイヤル錠、入っちまえば二分で事足りる……大丈夫……
     一つ息をつき、再度気持ちを落ち着けて集中すると、閃光は赤外線センサーを躱しながらゆっくりと歩を進めた。開錠に必要な網膜と掌紋のデータは既に手に入れている。あとは声紋認証で散々練習した努力を水泡にせず、パスコードを入カミスさえしなければ〈在りし日〉は手に入る。
    ーー次の巡回は零時十五分……そんなに時間は必要ねえ!
     ノルマクリアを確信して、閃光が残り一本の赤外線を跨ごうとした時だった。
     鋭く空気を切り裂いて迫る弾丸の気配ーー消音機(サイレンサー)で抑えられていようと、その明確な敵意と硝煙の匂いは完全に消せはしない。
    「…………っ!?」
     辛うじて咄嗟に躱したものの、おかげで大きく振れた右手が赤外線を引っかけた。途端に鳴り響く警報音ーーけれど、閃光が今注意すべき相手はそちらではない。大挙して駆けつけて来るであろう警備員たちでもない。
     続けざまに飛んで来る二撃、三撃は威嚇に近い位置を穿って来る。殺すよりもこちらを近づけさせまいとするような。非常灯と外明かりのみで、普通ならば殆んど視界は効かないはすだ。それなのにここまで正確に撃って来るのは、
    ーー暗視スコープだろ、喰らえ……!
     微かに過ぎった影が潜む辺りへ、視界を庇いながら救援などに使われる信号弾を放つ。
     制圧に使われる閃光弾(スタングレネード)と比べれば随分可愛らしい代物ではあるが、スコープ越しに目にすれば数分は身動きが出来なくなるはずだ。
     が、再度路み込もうとした閃光へ、
    「警告です。そのまま下がって戻って下さい。そこから一歩でも踏み込んだら、社長室に侵入の意思ありと判断して全力で殺します」
     静かにそう告げながら柱の陰から姿を現したのは、背の高い金髪蒼眼の青年だった。

    →つづく
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