トーキョーブリッジは埋立地である人工島ダイバシティと湾岸線を繋ぐ大きな橋である。世界でも指折りの規模を誇る日本の首都トーキョーを臨み、その洗練された景観を眺めるために多くの観光客が訪れる有名スポットで、人の行き来は平日でもかなり多い。
     ミツキは迷った挙げ句、局所持の車ではなく赤い愛車でトーキョーブリッジへ向かった。もし追跡出来そうな状況ならば間違いなく車は必要だったが、先日の麻酔銃紛失の件で局の車を貸出申請するのはあまりにも厚かましい気がしたからだ。これならまあ、万が一何かやらかしても自己責任で終わる。買ったばかりのお気に入りだから、そんな万が一など起きてもらっては困るのだが。
     ブリッジの中ほどには展望台のようなちょっとしたスペースが設けられていて、観光客の姿がちらほらと見える。その一角にある駐車場に、ミツキは車を押し込んだ。少し先には大きな観光バスが何台か停まっている。
    ――それに、あんなボディーに『文保局』なんてデカデカ書いてある車で乗り着けたら、警戒されちゃうもん……
     そう思うのは、局の誰にも告げることなく出て来てしまった罪悪感と不安も多分にあるからに他ならない。途中立ち寄ったコーヒーショップで購入したキャラメルマキアートを一口飲んでから、ミツキは小さく溜息をついた。緊張している。
     果たして、バレットはちゃんと約束を守ってくれるだろうか。
     期待と――裏切られる心構えと。
     腕時計を確認すると、あと一分で指定された時間だ。固唾を飲んで秒針と睨めっこする。カチ、コチ、と実際には喧騒や風の音に紛れて針の動く音など聞こえはしないのに、やけに規則正しく時間は刻まれて行く。
     よし、外に出ようと運転席のドアを開けたところで、鼻先に銃口を突きつけられた。
    「………………っ!?」
    「降りるな。そのままでいい」
     見覚えのある銀色の銃口――いつの間に現れたのか、目の前にバレットが立っている。夕刻――もう日没まで間もないと言うのに、閃光は相変わらずサングラスをかけたままだった。おかげでその奥の双眸に浮かんでいるはずの感情は読めない。
     覆い被さるようにしてドアを押さえられているが、その背中に隠れて彼がこちらに銃を突きつけていることなど誰も気づかないだろう。下手をすれば恋人同士に見えるかも知れない。無論、この男はそう狙ってやっているのだろうが。
     退いて堪るか、と言う想いを込めてキッと眼差しを上げると、濃い色のレンズの向こうで閃光が僅かに双眸を細めた気配がした。
    「今この車を狙ってやがる銃口の数を知りてえか?」
    「一つじゃない。貴方のそれよ」
    「……大したお嬢ちゃんだぜ。昨日の出来事は寝たら夢の中に忘れて来たかよ」
     舌打ちと共に降って来た声は苦い。
     その言葉を聞いて、さすがにミツキの背筋を冷たい汗が伝った。後数センチの距離まで迫った死の鋭さを、なかったことにしたくとも恐怖を感じた身体は覚えている。
    「嘘……あいつら、近くにいるの? こんな人通りが多いところで何か仕掛けて来るって……貴方はそう思ってるの?」
    「障害にならねえ人目なんざ、ないのと同じだ。まあ、今日の奴らは昨日の奴らと別口みたいだがな……隠れ方が素人過ぎて笑っちまわぁ」
     ふん、と馬鹿にするように笑ったところを見ると、どうやら余裕はあるらしい。しかしその言葉はミツキに取って、何の慰めにもならなかった。
    「どうしてそんなにいろんな奴らから狙われなきゃならないのよ……」
    「『暁』盗み出した俺たちと、一時でも行動を共にしたからに決まってんだろ。協力者に獲物渡して逃げるのは常套手段じゃねえか。まあ、俺があの時お前に渡したのは偽物の方だけどな」
    「あ、そうよ!! あれ、貴方のせいで私、課長からすっごく怒られたんだから!! ちゃんと本物返して貰うわよ」
    「全部終わったら、『暁』もテメーの『天道』も、奴らが持ってる『落陽』も、耳を揃えて渡してやるよ。だから、もうしばらくの間俺に貸せ。悪いようにはしねえ」
     さんざっぱら訴えてやろうと思っていた不満と文句は、想像していたのとまるで違う真摯な言葉で封じられた。口調は相変わらず高圧的で一方的で反論は許さないと言いたげなものだったが、そこに滲む感情は決して冷たいものでもなければ、こちらを謀ろうとする姑息さも感じられない。
     けれど一度騙された身としては、素直に解ったと了承して頷くことは出来なかった。
    「どうしてよ。渡すなら貴方が私に……文保局に渡して然るべきでしょう? 今個人で〈魔晶石〉を持つことは禁止されてるわ。大体何で『暁』と私の指輪が同列扱い……」
     言っているうちに気づいたのだろう。ミツキの顔色がスーッと失せた。
    「まさか……『天道』も〈魔晶石〉だって言うの?」
    「ああ……しかも運が悪いことに、『暁』と同シリーズ……三つで一つの〈魔法術〉を形成してやがる。同じ一角獣の紋章が入ってんだろうが。ありゃあ、家紋だ」
    「そんな……私、知らなかった……」
    「だから今教えてやっただろ。つまり『暁』が本物であれ偽物であれ、お前は『天道』を持ってる限りその内危険に巻き込まれてたってことだ。文保局は指輪の保管は出来るかも知れねえ。実際数多の文化財の管理をすんのも仕事の一つだろう? でも〈魔術式〉の残った美術品は、いつ爆発するか解らねえ不発弾と同じだ。俺たちならその術式を分解して、あれをただの指輪に戻せる。テメーの仕事はその後からで充分じゃねえか。こちとら別に、抱え込んで盗賊王を気取るつもりもねえ」
     それに万が一、昨日のような奴らが文保局を襲って来た場合、あの建物にそれを迎え討つだけの武力はないのではなかろうか、とミツキは思う。
    暗黙の了解で領域内での平和が保たれているだけであって、まさか〈世界連邦〉の関連施設を襲撃して来る無謀な輩などいないだろうとこちらが勝手に安心しているだけであって、軍事施設でも何でもないから大丈夫だろうと高を括っているだけであって、誰かがその気になれば容易く陥落するのではないだろうか。
     そしてきっと昨日の彼らは躊躇などしない。
     盗まれないためのセキュリティーは高性能でも、真正面からそれをぶち破ってやって来る脅威など、恐らく誰一人想定などしていない。
    「で、でも……」
     曲がりなりにもミツキは文保局の局員だ。泥棒の片棒を担ぐ真似など出来る訳がなかった。今こうして私用でのこととは言え秘密裏にバレットと会っている、と言うだけでも酷く後ろめたいのに。閃光の提案は、彼の犯行を黙って見過ごせ、と言うことに他ならないのだ。蜂須代議士を断罪し、局は間違っていると口にした以上、自分の大切なものを返してもらいたいばかりに頷くことは許されない。
     瞬間、サイドボードの上に置いていたキャラメルマキアートの紙コップが軽やかな音を立てて弾け飛んだ。衝撃に寄って撒き散らされた中身が派手に飛び散る。
    「伏せろ! 下手な弾の方がどっから飛んで来るか解んねえぜ」
     ぐっと無理矢理頭を沈められて一瞬反発心が芽生えたものの、すぐに庇われたのだと理解した。間近に迫った思ったより厚い胸板から独特の煙草の匂いが鼻先をくすぐり、思わず頬が熱を帯びる。
     振り向いた閃光は、狙撃に失敗したと見るや苦々しい表情で停車している車の影に身を潜ませる男の姿を見つけて引き金を引いた。
     ドンッ! と火薬が間近で爆発する音、衝撃。
     拳銃を取り落とした男が、肩口を押さえて呻きながらアスファルトに転がる。突如響いた銃声と血塗れで転がる男を目にして、今まで呑気に夜景やネオンを眺めていた観光客たちは瞬く間にパニックに陥った。
    わあっ、と蜂の巣を突いたようにそれぞれが思い思いの方向に走り出す。
    「銃撃だ!!」
     誰かの叫ぶ声。
     途端にこちらを見失うまいとしてか、数名の柄の悪そうな男たちが飛び出して来る。いずれも欧州系の顔立ちをしていたが、拳銃片手に観光などあるまい。
    「構わん!! 撃ち殺せ!」
     ボス格らしい初老の男が叫んでいる。
    「おいおい、穏やかじゃねえな……伯爵閣下自らお出ましとは……それにしても、誰に向かって撃ち殺せ、なんてほざいてやがるんだか」
     は、と嘲笑を吐き捨てた閃光はこちらに向かって銃を構えた男をちらりと見やった。彼が照準を合わせて引き金を引くよりも、閃光がその腕を撃ち抜く方が断然速い。二人目、三人目――まるで撃たれるためにわざわざ飛び出して来ているかのように、男たちは悉く閃光の銃の前に倒れて行く。
    「あの人、誰なの?」
     交戦中に訊ねることではないと思ったが、自分の命を狙う相手のことくらいは知りたい。答えが返るか否かは五分だと判断したが、余裕綽々の体で紫煙を吐き出した閃光は足下にバラバラと薬莢を撒き散らしながらあっさりと答えた。
    「ザルツブリック皇国の軍事総督第一等補佐官、アレクセイ・ハーレンスキー伯爵。三つの指輪のまぁ、正当後継者だな。分家の血筋だから本来なら手に渡る機会なんかなかったんだろうが、本家が断絶して久しい以上、所有権は一番高い」
    「ザルツブリックはあんな強盗団を子飼いにしてるの!? それに所有権なんて……」
    「昨日の奴らは個人的に雇ったんだろ。今日のお供は自分の部下みたいだがな。でもまぁ、見ての通り奴らは獲物を手に入れるまで諦めねえぞ。あの猛攻をテメーは一人で防ぐのか? それとも逮捕の危険を覚悟で上司に相談するか? 文保局に回収の強制執行権がない限り、奴が指輪を手にしている限り、こう言うことは永遠に続くぜ」
    「それは……」
    「遅かれ早かれ『天道』の存在も明るみになるだろうし、テメーが俺の助力を良しとしねえなら指輪は確実に奪われる。テメーの大事なものは二度と戻ることはない」
    「冗談じゃないわよ、あれは私がお祖母ちゃんから貰った大事な……」
    「馬鹿、頭上げんな!」
     思わず勢い余って立ち上がりかけたミツキは、再度閃光から頭を押さえつけられた。そのすぐ真上に飛んで来た弾丸がめり込む。

    →続く