「って主張してんのはテメーだけだろ。盗まれたんだ、なんて言われたら、牢にぶち込まれるのはお嬢ちゃんだ。こうして実際、その『手立て』と仲良くしてるとこなら見た、と証言してくれる奴らがごまんといる」
    「………………っ」
    「だから、テメーが選ぶべき道は既に二つに一つだ。俺と組むか、ここで死ぬか……どっちがいい?」
     背後から忍び寄って来ていた一人が、手にしたサバイバルナイフを振り上げる。それに気づいたミツキが悲鳴を上げるよりも早く、振り向きもしない閃光の銃が男の凶器を弾き飛ばした。
    「で……どっちだ?」
    「それって……私に選択権あるって言える?」
    「死にたい奴を助けるほど、暇でも慈善家でもねえんだよ、俺は」
    「…………解ったわよ。その提案、ノるわ」
     交渉しに行ったところで話を聞いて貰えそうになどなかったし、よしんば耳を傾けてくれたとしても、彼は同情や憐憫の想いよりも自らの欲望を優先するだろうことが手に取るようにありありと想像出来たからだ。
     そんな輩に大事な指輪を渡してなるものか。
    「上等」
     にやりと酷く楽しげな――けれど傍から見ると限りなく悪辣な笑みを浮かべてから、閃光がこちらへ視線を投げて来た。ゆらり、くわえたままの煙草の先が揺れる。
    「斜め後方に俺の黒い車が停まってんの、見えるな? ロキが……昨日の俺の相方が乗って待機してる。合図したら走れ」
    「え、ええ……解ったわ」
     とにかくこの場を脱出しなければ、他の一般人にも被害を出してしまうかも知れない。ミツキは小さく頷いた。ことこの期に及んで他の選択肢を取れば、呆気なく殺されてしまうだろう。そんなことはごめんだったし、指輪を守るにしても何にしてもとにかくこの場を生き延びなければお話にならない。
     花火のように連続する発砲音。弾丸の盾になったおかげで運転席のドアは見るも無惨だ。タイヤはパンクしているし、もう使い物になりそうにない。
    ――やっぱりサイアクだわ……
     鳴り止まない銃声。閃光は最低限の弾数で対応しているらしかったが、一体あとどのくらいの弾丸が手元に残っているのだろう? あちらは無尽蔵に近い補填を出来るのかも知れないが、こちらは弾切れしたら一巻の終わりだ。
    ――いつ……?
     合図はいつ出されるのか。
     ミツキは注意深く閃光の動きを見守り、いつでもスタートが切れるように全身へぐっと力を込めた。
    ――バレット……!
     闇雲に発砲していた相手の銃声が一瞬だけ途切れる。揃って弾切れを――意図的に引き起こされたのだと、彼らが青ざめる隙を閃光は見逃さない。
    「今だ、走れ!!」
    「あの小娘を捕まえろ!!」
     オリンピック選手も顔負けの好スタートダッシュだった、と我ながら誉めてやりたい。が、無論向こうだってこちらが機を見て逃げようとしていることくらいはお見通しだっただろう。
     数秒の空白を置いて銃声が飛んで来る。迫り来る弾丸を――背後を恐れないで前だけを見て一心不乱に全力疾走出来るのは、閃光が援護してくれるからだ。誰よりも銃の扱いに長けた、天下の怪盗バレットがついていてくれるからだ。
     肩書きも建前も取っ払ったこの状況で、彼は誰より何より頼もしい味方だった。
     足元でアスファルトが砕け飛んでも足を止める訳には行かない。卒業からこっち何の運動もしていない身体は既に悲鳴を上げていたが、ミツキは必死に走った。
     昨日廃車寸前にまでボロボロにされていた閃光の車が、何故か新車同様の輝きを見せて停車している。助手席側後部座席のドアは既に開けられていて、運転席のロキが何事か叫んでいるのが確認出来た。
    ――あと、少し……
     ミツキが口唇を引き結んで足へ更に力を込めた時、ふわりと視界に白い影が舞った。
    「全く……だから余計な真似はしないで我々に任せておいて下さい、と言ったんですよ。貴方の方法はスマートじゃない」
     まるで天の御使いか何かのように、ミツキの行く手を塞ぐ形で音もなく降り立ったのは、閃光とは真逆に白尽くめの青年だった。
     夕闇の中にあっても光を放っているかのように輝く白銀の柔らかな髪、人好きのする穏やかな笑みを湛えた甘く柔らかに整った容貌、その中央にはまった紫暗の双眸――一瞬翼と見紛うたのは真白のロングコートだったらしい。
     が、何故だろう?
     青年と目が合った瞬間、ミツキの全身をぞわりと冷たい何かが貫いた。今まで感じたことのないその悪寒が、逃走を阻んだことよりも明確に、彼がどうしようもないほど自分たちと敵対する存在なのだと告げて来る。
     頭に獣の耳が生えていることよりも、袖口から覗く手が剛毛に覆われ鉤爪が生えていることよりも、もっと根幹的な部分がこの青年の悍ましさを伝えて来るのだ。
     彼と背中合わせの形でもう一人、飛び出して来たロキを牽制するように大柄な男が刀を構えていた。横顔ではあったし、あの時もちらりと一瞬しか見てはいなかったが間違いない、昨日襲撃して来た男だ。
    「閣下はその使えない駄犬共を連れて下がって下さい。我々の仕事のやり方に口出しはしない、とそう言うお約束だったはずでしょう」
     丁寧な――けれど凍えるような冷たさを孕んだ声に促されて、さすがにこれ以上のごり押しは危険だと思ったのだろう。例え精鋭部隊が一個大隊引き連れられていたとしても、話にならないのは明らかだ。
     人間の出る幕など、ない。
    「う、うむ……解った。貴様に任せる。必ず指輪を取り戻して邪魔者を始末しろ」
    「御意」
     わざとらしく慇懃無礼な礼をした青年は、立ち塞がってはみたもののミツキのことなど路傍の石ほどにも意識に上っていないようにきれいに無視して、その背後で銃を構える閃光と改めて相対した。
     先程までの余裕が今の彼にはない。それだけ油断も隙もない相手だと言うことだろう。
    「テメー……何者だ?」
     サングラス越しに閃光が双眸を細めた。ビリビリと伝わる殺気に空気が振るえて、全身の細胞が危険を叫んでいる。周囲にいる雑魚たちなど比べるべくもない。
     この男は危険だ。
     警戒心を漲らせるこちらを見やって、白尽くめの青年はにこりと柔らかな笑みを浮かべ、己の姿を誇示するように両手を広げてみせた。
    「一応お初にお目にかかります、でいいのかな? 怪盗バレット……いや、天狼閃光。僕はウォルフ・キングスフィールド。『君と同じ』獣の血を引く盗賊だよ」
    「…………何の話だ」
     剣呑な声音で銃を向けた姿勢のまま、閃光はサングラスの奥でさらに双眸を細めた。元々、初対面の人間から馴れ馴れしく名前を呼ばれるようなことを好まない男である。彼の態度が酷く癇に障った。
     しかしそんな閃光の様子など歯牙にもかけず、青年――ウォルフはにこやかな笑みを崩すことのないまま言葉を続ける。
    「別に隠す必要なんかないだろう? 君のご先祖はかつてルナ・クロウリーが作りし〈魔晶石〉作品『知恵の魔獣』の呪いを受けた……僕のご先祖と共に。それ以来二つの血を汲む者には、こうして獣化の能力が顕現している」
    「…………知らねえな」
    「並の人間よりも遥かに優れた身体能力、五感、危機察知能力……どれを取っても劣ることはない僕たちは、彼らと同等である必要などまるでない。僕には寧ろ、何故君がそんな姿のまま現状に甘んじているのか理解しかねるけどね」
     音もなく――けれど自慢げに、ウォルフは己の艶やかな太い尾を揺らしてみせた。
     確かに閃光の人並み外れた反射神経や身体能力に驚きはしたが、どう見ても彼の頭に三角の耳は生えていないし、鉤爪も尾も存在しない。一体何を持って彼が自分たちを『同じ』と称しているのか、ミツキにはまるで解らなかった。
    ――それに、呪いだなんて……そんな非科学的極まりない現象が、この現代にある訳ないじゃない……
    「下らねえ……俺にはいい歳扱いて、そんなコスプレ紛いの格好を自慢出来る神経の方が理解しかねるがな」
     短くなった煙草をプッと吐き捨ててアスファルトの上で踏み消すと、閃光は溜息混じりの紫煙を吐き出した。
    「確かに俺は他の奴らより身体が丈夫に出来てるし、ちょっとばかり勘もいい。それで今までこの世界を生き抜いて来られたのは事実だ……だが、だからってそれだけの理由で、テメーみたいな変態と同類扱いされちゃあ堪んねえな」
    「はは、随分手厳しいな……まあ、確かにちゃんとした手順を踏んで挨拶をするべきだった、とは思ってるよ。礼を欠いているのは否めない。でも、僕には僕の……依頼主に急かされている、と言う退っ引きならない事情もあるんだ……少しくらいは大目に見てくれても罰は当たらないと思うけど」
    「そんなこたぁ知ったことか。『暁』に先に目をつけてたのは俺だ。さっきのオッさん、依頼主ってあいつだろう? すぐに伝えろ、今回の獲物は諦めろってな」
    「そう、それなんだよ」
     ポンッとウォルフが手を打つ。
    「僕は正直、獲物の価値なんかどうでもいい。僕にとって重要なのはそこに宿る〈魔術式〉だけだ。だから、君が必要だって言うなら指輪を譲ったって構いやしない。全ての〈魔晶石〉の無効化……君のその目的だって達せられる」
    「………………」
    「単刀直入に言うとさ、閃光……僕と手を組まないか? ってお誘いのつもりなんだけど」
     ウォルフの双眸がきゅうっと細められる。そうすることが当たり前だと、閃光が首肯することを疑いもしないような表情と声音。
    「僕たち二人が手を組めば、この世界に存在する全ての〈魔法術〉は僕らのものだ。下らない人間共の目を気にしなくていい。僕らはこの力を持ってして、何にも縛られない神に等しい存在になれる」
     その誘いは――ウォルフの言葉は、閃光に取ってどんな意味を持つだろう。
     少なくとも裏社会に身を置く者同士として、共感出来る部分があるのだろうか? 彼は大よそ権力や世界を支配するなどと言う妄想には興味を示さない人種なのだとミツキは勝手に捉えていたが、本当のところはよく解らない。自分の指輪を預ける形になった現在も、〈魔法術〉の分解と言う名目はあったが、果たしてそれはどこまで本気でどれだけが本音なのか掴む術は、こちらにはないのだ。
    ――もし…………
     バレットが敵に回ってしまったら、況してやこの恐ろしい男と手を組むような羽目になったら、対抗など仕様がないのではあるまいか。
     冷たい汗が背中を伝う。
    ――頷かないで……
     ロキも縋るような懇願するような眼差しをこちらに向けている。
     それに気づいているのかいないのか、ウォルフの話を黙って聞いていた閃光は徐に懐から煙草を取り出すと一本をくわえ、ジッポーを掲げて火をつけた。深々と紫煙を吸い込むとゆるり吐き出す。
     たっぷりと間を取った末にサングラス越し投げられた鋭い視線は、躊躇うことなくウォルフを真っ直ぐに貫いた。
    「悪い…………何だって? よく聞こえなかったな」
     その一言で、今まで余裕たっぷりにこちらを見下していたウォルフの纏う空気が、音を立てて罅割れ、凍りついたように温度を下げた気がした。少なくとも彼の中で、閃光が断わると言う選択肢は拒絶されると言う選択肢は、想定されていなかったのだろう。
     表情こそ変えず柔らかな笑みを崩すような真似はしなかったものの、弧を描いていた紫暗は凶悪などす黒い感情を俄かに滲ませたようにミツキは思えた。
    「君は、この素敵な協定を足蹴にする、と?」
    「何が協定だ。テメーの提案はあくまでも自分のための搾取じゃねえか……俺だって指輪は必要ねえ。だから〈魔術式〉も渡さねえ。それに俺ぁ自分の相棒くらい自分で選ぶ。目的も手段も違うテメーとは、例え世界が滅んだって手を組むこたぁねえよ」
    「そうか……それは残念だな。君ならきっと……優れた己の血の価値を、正確に理解しているものだと思ってたよ」
     溜息をついて失望したらしい表情を浮かべると、ウォルフはこちらへと歩いて来た。すれ違いざまに閃光へちらりと一瞥を投げる。視線が交錯、する。
    「だったらもう君に用はない」
    「おい、待て。テメーにゃなくとも、こっちには……」
     瞬間――
     その肩を捕まえてウォルフをこちらへ向き直らせようとしていた閃光の胸から、凄まじい勢いで血飛沫が上がった。通常の鐡ではなく凍えたように銀色に澄み渡り、事実冷気のような微かな靄を纏った刃が、容赦なく牙を剥いたのだ。
     本来一般人相手なら如何な剣の達人が相手であったとしても、閃光は真正面からこうもまともに袈裟斬りにされたりなどしなかっただろう。抜き手も見せずに放たれた斬撃は些かの躊躇もなく、また人を殺すことに感慨もないその一太刀を、獣の速さを全くの無防備で躱すことは不可能だった。
    「閃光!!」
     それでも構えを解かずにいた銃が傷へ致命的な深さを与えなかったのか、アスファルトヘ体勢を崩して倒れ込みながらも、閃光は引き金を引いた。至近距離からの銃撃――回避不可能である弾丸の牙を、ウォルフはいとも容易く捌いてみせた。翻った切っ先が迫る死を振り払う。
    「…………っ」
    「僕らに取って、来ると解っている攻撃には何の意味もない。ましてやそんな直線的な一撃……読む必要もないね」
     ひゅんっ、と空気が斬り裂かれる音を聴覚が辛うじて捉えた。考えるよりも反応した身体はどうにか振り下ろされる一太刀を躱したものの、次いで返された刃が追い縋り浅く肩口を斬り裂く。
    「アレン、こっちはいい。その女から指輪を奪い取れ」
    「承知しました」
     答えた男――アレンもまた、躊躇いなく腰に佩いていた刀を抜いた。だっと力強く地を蹴って突進しながら、さらに懐から銃を引き抜く。
    「こんなことに関わる羽目になった不運を嘆け」
     突きつけられた銃口が冷たく鈍い光を放つ。死の瞬間は全ての光景が緩やかに見えると言うが、それは脳が現実問題を正しく認識把握出来ないからだと言うことを、ミツキの頭の片隅は奇妙な冷静さを持って理解した。
     マズルフラッシュ。
     遅れて届く銃声。
     どれも曖昧で遠い世界の話のようで、まるで映画を見ているように現実感が乏しかった。
    ――ああ、私撃たれてここで死ぬんだわ……
     他人事のように迫り来る弾丸を眺めていることしか出来ないミツキの目の前に、ザッと人影が立ちはだかった。
    「強制停止。推進力を無効」
     右手を前方に突き出し、そう唱えながら〈魔法術〉を展開したのはロキだった。思わず目を丸くして息を飲む。
     本来ならば有り得ない。
     〈魔法術〉は〈世界大戦〉後政府の手によって文字通り根刮ぎ葬られ駆逐された技術であり理論であり学問で、今ではそれそのものが貴重な〈黄金期〉の品を使っても上手く発動出来れば稀有な奇跡で、ましてや何の道具も使わず直接駆使することが出来る人間などいないはずだからだ。
     〈文化改革〉によって、全ての負の遺産は闇に消えたはずだからだ。
     からからと乾いた音を立てながら地面に転がる弾丸に構わず、アレンは続けて引き金を引いた。が、ロキの前にはまるで見えない壁でも存在しているかのように全ての弾丸は同じ位置で同じ運命を辿った。その度に一定距離の空間には蒼い光が瞬き、〈魔法術〉が展開されていることを示す。

    →続く