物陰に身を潜めたせいでこちらを見失ったのか、ハナからそれほど興味があった訳ではないのか、巨狼はふいっと踵を返すと今度は橋の上で右往左往している人たちに向かって悠々とした足取りで歩き始めた。その口腔内ではいつでも吐けるぞ、と言わんばかりにちらちらと炎が燻っている。
     わざと弄んで反応を面白がるかのような態度に、ミツキはぎゅっと拳を握り締めた。
    ――少なくとも……普段のバレットは無関係の人を傷つけて楽しむような、卑劣な男じゃない……
     その本意ではない獣の暴走に、元に戻った後で閃光はどれほど慚愧の念を抱くことだろう。例えそれが自ら望んでのことではないとは言え、その手を汚した事実は消えない。奪ったものは戻らない。その悲しみが主人をどれほど打ちのめすのかよく解っているから、ロキはこんなにも必死に彼を止めようとしているのだ。
     ゴッシャアアアッ!!
     巨狼の振り下ろした前脚が、停車したままだった観光バスの横っ面を張り飛ばす。マッチ箱か何かのようにへしゃげて形を変えた車体は面白いように吹っ飛び、橋の支柱に激突して無様な鉄屑と化した。その際ガソリンに引火したのだろう。数秒遅れて爆発が起こり、紅蓮の炎が夜闇を薙ぎ払うように咲く。
     けれどその全身から放たれる圧倒的なプレッシャーに、ミツキは身動き一つ取れないでいた。少しでも身動ぎしようものなら、すぐさま巨狼は爪牙のどちらかを突き立てて来るだろう。ロキも動きたくともタイミングを図れないのか、庇うように立ってくれている背中が酷く緊張しているようだった。
    「は、ははははは……っ!」
     そんな中一人、ウォルフだけが楽しげな声を上げて嗤う。
     何を恐れることがあるのかと言わんばかりに嬉しそうな笑みを浮かべ、敵意がないことを示すためにか両手を広げたまま巨狼に近づいて行く。その足取りはさながら、猛獣を手懐けようとする調教師のようだった。
    「そうだ……それでいいんだ、閃光。それが君の本性だ。正しいあるべき姿、隠しても隠しきれない獣の性だ! どんなに抗っても、激しい本能を抑えることは出来ない……僕たちは同じバケモノなんだ!!」
     憑かれたように歌うように言葉を紡ぐウォルフは、すっかり巨狼に魅入られてしまったらしい。
    「思うがままに力を振るえ。人間たちに恐怖を植えつけろ。そして君は自分の犯した罪に絶望して、僕と共に道を歩むしかなくなる」
     辺りを睥睨していた巨狼の視線が、その声に応えるようにぴたりとウォルフの顔を捉えて固定される。
     ただ彼に投げられた眼差しは、それまでと同じお遊びの余裕たっぷりなものではなかった。白い影を捉えたのと同時に、腹に響く重々しい獰猛な唸りがその感情に禍々しさを上塗りする。この世の恐怖と絶望を具現化したその射抜くように鋭い真紅の双眸には、底知れない激しい怒りと敵意と嫌悪が滲んでおり、まるで自分以外の存在世界中全てが敵だと認識するかのような色をしていた。
     それはウォルフが〈遺産〉の刀を抜き身で下げていたからではあるまい。
     閃光の記憶を引き継いで、彼が己に害成す敵だと認識したからでもあるまい。
     もっと根幹的に本能的に、自分とどうやっても相容れない存在を叩き潰してしまわねばならないことを、自己防衛のために感じ取ったからに他ならない。
     獣には言葉も理屈も必要ないのだ。
     彼らにあるのは常に喰うか喰われるか、己と相手のどちらが生き残る強者かと言う二者択一のみなのである。
     結局のところそれは、世界中に誰一人として寄る辺ない絶対的孤独を表わしているように思えて、ミツキの胸を深く貫いた。誰よりも傍で自分を支えてくれる相方でも、同じ境遇の敵でも解り合えない分かち合えない苦しみと寂しさと。
    ――貴方はきっとそれを今まで抱えて来て……これからも抱えて行かなきゃならない……
     しかし、そんなことは知ったことかと言わんばかりのウォルフは、なおも閃光を獣たらしめんと言葉を紡ぐ。
    「素晴らしい……やはり、君に逢うためだけにわざわざ日本に寄ったのは正解だったよ、閃光。孤高の獣とは何と美しいんだろうね」
     狂喜に塗れた光を紫暗の双眸に浮かべながら、ウォルフはゆっくりと刀を構えた。
     西洋に伝わる剣術の構えではない。一対一で対峙した場合、人類史上最強最速を誇ると言われた日本刀の威力を余すところなく発揮する、居合い抜き抜刀術の構えである。拳銃の登場と進化と普及とで黴びた古臭い戦闘方法だと侮る輩も少なくないが、ウォルフに言わせればそれは馬鹿の論理と言うものだ。
     どこから弾丸が飛んで来るか解らない敵味方入り乱れた戦場ならまだしも、面と向き合って真っ直ぐにしか飛んで来ない凶器の何を恐れることがあろうか。
     弾雨を物ともしない神速の剣術を身につけた彼に取っては、同じ理由で大きいからと言うだけで巨狼を恐れる必要性など微塵も感じられなかった。
    「暴力と言う言葉をそのまま体現したかのような、凄まじい殺気と敵意と威圧感だ……完全獣化は僕もまだ果たしていない未知の領域……ねえ、君は今一体どんな気分なんだい、閃光!?」
     ボッと空気が燃える音を立てるほどの勢いで地を蹴ったウォルフが、巨狼に襲いかかる。それは端から見ればさながら、象へ鼠がケンカを仕掛けるような馬鹿げた体格差だったが、違っていたのはウォルフが鼠ほど無能でも無力でもないことだった。
     迎え討とうと振り下ろされる前脚の一撃をかい潜り、目にも留まらぬ迅さで一太刀が振るわれる。喰らっていたなら間違いなくそのまま叩き潰されていただろう爪を、影すら触れさせない。鞘を投げ捨てて持たない今の状態では半分の威力もないだろうに、巨狼の前脚から派手な血が飛沫いた。
    「閃光……っ!!」
    「ち……落とすつもりで行ったんだけどな。なかなかどうして頑丈じゃないか」
     この姿になると〈魔法術〉を駆使出来るようになるのか、巨狼が咄嗟に空気の壁を作り、己の斬撃のダメージを軽減させたのを間近にいたウォルフは捉えていた。
     どうと言う傷でもないと言わんばかりに気軽に返される前脚を、辛うじて受け止める。やはり、迅さだけを取るなら五分だ。ただまともに受け止めるには体重差も腕力も違い過ぎて、ウォルフは思い切り地面に叩きつけられた。衝撃に橋が揺れ、粉塵が巻き起こる。
     それと同時に、大きく開けられた巨狼の喉奥で火花が爆ぜる気配が空気を焦がした。
     カ…………ッ!!
     吐き出された炎の塊が周囲を巻き込んで勢いよく爆発する。
     が、燃え盛る炎の中から躍り出たウォルフは〈魔法術〉で巨狼へ無数の氷柱を放った。目眩ましと解っていてもそれは反応せざるを得ず、一瞬にして水蒸気と化した氷柱の煙幕で巨狼はウォルフの姿を見失ってしまったようだった。
     鋭く繰り出された突きの一撃が巨狼の頭を貫く。が、微妙な手応えの違いにウォルフが目を見張ると、その視線の先で刃はぞろりと並ぶ牙に受け止められていた。表情筋の関係で決して笑えないはずの黒い獣が、にたりと笑みを浮かべる。またしても互いの手の内を読んだ〈魔法術〉同士が間近で衝突し、激しい爆発が起こった。
    「これが……〈魔法術〉なの? 何て激しい……」
     その様を眺めながら、ミツキは思わず言葉をこぼしていた。
     離れていても力任せに歪められた空気の軋む音が聞こえる気がする。世界の在り方を変え、組み直し、全く別物にしてしまう術とはよく言ったもので、成程確かにこんな争いがそこかしこで起こる事態が続けば、人類は滅亡していたことだろう。
    「だから、僕たちが止めなきゃならないんです」
     地面にがりがりと何かを描いていたロキが立ち上がり、静かに二匹の獣の喰らい合いを見据える。
    「呪いを受けた僕たちだからこそ、その力の膨大なる威力と愚かしさがよく解るんです……これは生み出されるべきものではなかった。一つ残らず消してしまうしかないんです。全てを集めて人類の頂点を目指すなんて……馬鹿げてる」
    「おい、貴様何をするつもりだ!?」
     地面に倒れ伏したままのアレンが声を荒げる。感情などいの一番に消されたはずの機械化歩兵でも、主人に及ぶ危機には過敏に反応するのだと、どことなくロキは羨ましく思った。
    「別に……貴方のご主人をどうこうしようなんてつもりは、さらさらありません。でも僕は、閃光を元に戻さなきゃならないんで」
     彼には視線を向けず、魔法陣の中に足を踏み入れる。
     先程口頭で〈魔法術〉の展開を行おうとした際に、時間がかかり過ぎることを実感したロキは、その大半を省略するために予め〈術式〉を仕込んでおけるこの形を取ったようだ。巨狼がウォルフとの戦闘に意識を削がれていたのは幸いだった。数多の文字や図形で構成されたそれは、複雑で一体何を意味するのかなどミツキには解らない。が、果たしてアレンとの戦闘で相当の魔力を消費したロキにその〈魔法術〉が使いこなせるのだろうか。
     ふわり、と柔らかな風が足下から沸き起こったようにロキの髪と服を揺らす。夜闇を払い、魔法陣の軌跡を辿るように蒼い光が地面を走った。
    「改変された〈存在固定粒子〉へアクセスします。直近で上書きされたデータを消去、定位置への置換を要請……」
     真っ直ぐに向けられる視線の先で、ウォルフが爪牙を穿たれ、巨狼が刃に斬られる。お互い実力は伯仲しているのか、手数の分だけ傷は増えても相手を倒すまでには行かない。どちらも疲弊し血塗れだ。
     が、それぞれ自分の譲れない想いのために退く理由を持たず、このままでは共倒れになることは必至だった。
    ――僕は……貴方を死なせないと、約束しましたから……
    「く……っ、」
     ずざざっと力一杯薙ぎ払われて後退ったウォルフが、呼吸を立て直すためにだろう、間合いを外して距離を取る。膝を落としてしゃがみ込んだ体躯からぼたたっ、と滴った鮮血が、決して彼の傷が軽いものではないことを知らしめていた。
     が、対峙する巨狼の方も汗のように全身をぐっしょりと血で濡らしており、元から蓄積していたダメージを鑑みると限界はもう目と鼻の先だ。
     彼我の距離が開いた今この瞬間をおいて、もう二匹の獣を止める術などない。
     ロキは一気に〈魔法術〉の展開を実行する。
    「『在るべき姿へ』!!」
     瞬間、巨狼の身体が雷に打たれたかのようにびくんと震えた。大地を蹴って疾駆しようと踏み出していた脚が蹈鞴を踏む。それと同時にロキは主人に向かって駆け出した。この場合一体何が一番危険かと言えば、元の人間の姿に戻ろうとする僅かな刹那が最も無防備だと言うことだ。
     〈魔法術〉を受け止める盾を形成しながら、動けない巨狼の――閃光の元へ走るロキよりも、かなりのダメージは追っていてもウォルフが疾駆する方が速い。
    「真剣勝負に水を差すのは無粋じゃないか、魔導人形」
     ウォルフの刀が無慈悲に閃光へと突き立てられる。蒼い〈魔法術〉の光を帯びていたそれは柔らかな体躯へ刺さると同時、瞬く間にその巨大な全身を凍りつかせてしまう。氷像と化してぐらりと倒れる獣へ、ウォルフは思い切り回し蹴りを放った。
     凍りついた巨狼の体躯が、音もなく橋の上から落下する。ビル数階分に及ぶ高さを海面に叩きつけられて、派手な水柱が上がった。
    「閃光…………っ!!」
     あの姿でここまでのダメージを負った主人を見るのは始めてだった。常ならそれほど心配するべくもないかも知れないが、細胞を凍結させられていた今は自己治癒能力が働いていない。さすがの閃光も危険だろう。
     ミツキを一人この場に取り残していくことが気にはなったが、ロキの躊躇は一瞬だった。どちらが優先すべき大切なものかなど、比べるまでもない。崩れた橋の断崖から海に飛び込んだ。降下しながら〈魔法術〉を展開して、周囲に防水と酸素の壁を兼ねたフィールドを生成する。
     衝撃を軽減した着水と同時に視界が空気の泡に遮られ、ゴボゴボと耳障りな音を立てた。
     夜の海は暗い。
     季節が身を切るような真冬でなかっただけ随分とマシだったが、それでも溺れる人間の生死を分けるのはほんの数分の判断の差である。
     腕時計に仕込んであるサーチライトを点けると、ロキは周囲を探索した。少し向こうに完全に意識を失っているらしい閃光の身体が漂っている。海水によって氷結は溶け出したものか血の軌跡を描きながらゆっくりと沈んでいく主人は、体躯は人型に戻っていたものの、三角耳や鉤爪などところどころに獣を残していて、他の人間に見つかったらえらい騒ぎになるであろう状態だった。
     急いで水を掻き分けて近寄ると、ロキは閃光の脱力した身体を抱え上げる。普通の人間ならば酸欠や疲労、水の重さ諸々のせいで二人分の体重を支えながら浮上することは困難かもしれなかったが、ロキはぐいぐいと水面を目指した。
     ばしゃん、とようやく顔を出すと、遥か頭上では橋が未だに燃え続けていて、まるで昼のように明るい。
     一体あそこにいた人たちのどのくらいが無事に逃げ果せただろう? それにミツキは無事なのか。今さらながら心配すべきことは山程あったが、湾岸のど真ん中に落ちた自分たちがどうやって陸に帰るかも頭の痛い問題だった。
     途方に暮れているロキの視線の先に、二つの影が姿を見せた。燃える炎に照らし出されたのは確かめるまでもなく、多少戦闘の名残を滲ませるウォルフと肩に身動きしないミツキを抱え〈魔法術〉を力尽くで解いたらしいアレンである。
    「やあ、良かった。無事だね」
     〈魔術式〉で音声を飛ばして来たウォルフが、こちらを覗いて見下ろしながら嗤う。
    「いいかぃ、よく聞け魔導人形……閃光が目覚めたら伝えておくんだ。この女は僕たちが預かる。本物の『暁』と交換で返してやろう。いい返事を待っている、とね」
    「………………」
    「それから、手を組み同盟を結ぶ件……もう一度よく考え直せと言っておいてくれ。この先勝てもしないのに僕の鼻先を彷徨くつもりなら、容赦はしない」
     本当なら、ミツキを助けるべく無謀を承知で二人と対峙するべきだったのだろう。
     けれど、閃光以上に己の能力を使いこなす半獣と、〈大戦〉の死線を潜り抜けた機械化兵を両方相手取るのは不可能だ。例え主人である閃光を守ることを最優先事項としてプログラムがなされていなくとも、勝率のない賭けに出られるほどロキは愚かではなかった。
     その様子を見やってウォルフは柔らかな笑みを浮かべると、傷を物ともしないしっかりとした足取りで踵を返した。アレンがその後に続く。堂々とした挑発的な背中を、黙って見送ることしか出来ない自分の不甲斐なさが情けなかった。
     口惜しさと憤りを堪えるために、意識のない閃光の冷たくなった身体を抱き締める。
    「…………すみません」
     誰にも届かない呟きは懺悔と罪悪に染められていた。


    →続く