朝日は嫌いだった。
     あの白々しいまでの鋭い光は、天高くに昇った己の眼前に全ての出来事を晒そうとする。穢く汚らわしいものも、隠しておきたい過去の傷も出来事も、露呈して然るべきだと糾弾するような烏滸がましいまでの清純さが。
     己の罪深さを知るが故に嫌いだった。
     月の光はまだマシだ。
     全てを飲み込むようなその冷たい優しさが、心地いい。夜闇を照らす薄弱なあの光は、万人に平等に降り注いでいる。血に染まった両手も悲鳴を上げる軟弱な心も、何もかも知らないフリをして赦してくれるかのような。
     彼女の眼差しにひどく似ている。
     それ故に駆り立てられる衝動も少なくはなかったが。
     ふと名前を呼ばれたような気がして、閃光はゆっくりと目を開いた。うっすらとした視界に映る影が、焦点の少しずつ合うごとに一つの像を結ぶ。
     そこにいるはずの人物を。
     そこにいなければならない人物を。
    「大丈夫……ですか、閃光?」
    「…………」
     決して他の人間の声が聞こえるはずなどないことが解っていながらも、降り注ぐロキの柔らかな声音に、閃光は人知れず安堵の溜息をこぼす。久し振りに目にするサングラス越しでない視界は相変わらずきれい過ぎて眩しい。
     優しく差し伸べられる、柔らかな手。体温を確かめるように髪が梳かれ、額に掌が翳された。熱など持たない指先の冷たさが心地いい。
    「気分はどうですか?」
    「……最悪だ」
     身体中が悲鳴を上げている。手を借りて起き上がるだけでも、バラバラになりそうなほどの激痛が走った。体躯が急激な変化を遂げるせいで起こる、目眩と頭痛。後ろめたさと自責の念に加えて、耐え難い苦痛が閃光を苛む。
     少し冷たい風にカーテンが揺れている。その向こうを明るさから窺い知るに、今の時間は午後――夕方にさしかかろうとするくらいの気怠るい時間帯か。
     見覚えのない部屋。簡素すぎるそのさっぱりとした清潔感は、およそ個性を感じさせない無機質なものだ。いくつか所有している隠れ家ではなく、何処か近くのホテルであるらしい。と言うことは、あのヤブ医者がわざわざ足を運んでくれたと言うことか。後から請求される代償の大きさや重さを考えると頭が痛かったが、抱えて移動されていれば間違いなく自分は死んでいただろうから、ロキを責めることも出来ない。
    「あれから……どうなった?」
     答えにくい質問と言うものは、されることが解っていても気の重たいものだ。ロキはなるべく感情的にならないように平静を心がけて報告をした。
    「閃光は三日間、意識を失っていました。その間、トーキョーブリッジは壊滅状態で全面閉鎖。一応テロ関係で捜査をしているとは発表されましたが、実質報道規制がされて何もなされてはいません。確認は取っていませんが、ハーレンスキー伯が手を回した可能性もあるかと」
    「……そうか」
    「ミツキさんは彼らに連れ去られました」
     告げた瞬間、閃光の双眸は僅かに細められた。シーツを握る指先が刹那振るえる。
    「彼女が持っていた『暁』が偽物なのは気づいていたようです。ただ、向こうにも本物を探している余裕がなかったのか、閃光が目覚め次第取引をしたい旨を伝えろ、と」
    「…………」
    「どうしますか?」
     状態は悪い。今までも危機的状況は幾度となく経験して来たが、今回の場合は無茶を通せば下手をしたら死ぬかもしれない危険を孕んでいる。
     が、閃光はその眼差しを逸らすことはしなかった
    「アイツに……スワロウテイルに連絡は?」
    「既に。偽物の『暁』に仕込んだGPSをずっと追跡してくれてます。今はトーキョー・ベイの小さな島にいると……本来の地図には載っていないそうです」
    「成程……関わり合いたくはねえが、本当にこう言う時には役に立つ奴だな」
     自由にならない手で内ポケットを探ろうとしたが、閃光はそもそもジャケットもシャツも羽織っていなかった。上半身を覆っていたのは真新しい包帯だ。
     苦笑しながら閃光はロキに手を差し出した。勿論手を貸せ、と言う意味ではなく、煙草を取れと言う意味である。それだけ重傷を負った身体ですぐに有害物質を接種するのは如何なものかと思ったが、喫煙者は揃いも揃ってそれが自分を元気にする動かしてくれる、と信じてやまないのだから仕方ない。
     無言で枕元の煙草の箱と愛用のジッポーを手渡すと、閃光は当たり前のようにそれを受け取って一本をくわえた。かしん、と石の擦れる音、燃えて先端が身動ぎする気配に続いて、ゆっくりと紫煙が吐き出される。せっかく換気されていた部屋に独特の匂いが広がった。肺を巡るニコチンに生きている実感でも覚えたのだろうか。閃光は眩しそうに双眸を細めた。
    「行くんですか……? その小島」
    「当たり前だ。借りは返す」
     やられっぱなしで手を引くのは、これまで怪盗として生きて来た人生を否定するような気分になるのだろう。こんな状態に追い詰められていると言うのに、閃光の眼差しは力を失っていなかった。
    「でも……」
    「勿論、まともにぶつかって勝てるとは思ってねえさ。あの野郎は今まで力尽くで奪って来た〈魔晶石〉の力を全部吸収してやがるし、自分の力が何たるかを理解して殆ど使いこなしてやがる。逆に全てを放棄した俺が奴と対峙するためには、完全獣化が必須条件……分が悪いとかそう言う問題じゃねえ」
    「そうですね……」
    「もし俺たちにアドバンテージがあるとすりゃあ、それは戦争しに行く必要はねえってことだ。先日は先手取られて正面衝突に持ち込まれたが、それこそこいつは怪盗の仕事さ。必要なのは力じゃねえ」
     まともに戦う道を避けると言うことは、
    「予定通り、ウォルフの元から『落陽』とミツキさんを盗み出すってことですね」
    「余計な荷物がついてるが……放っとく訳にも行かねえだろ。だからお前は今後来るあの野郎からの連絡を待って、指示通りに『本物の暁』を持って行きゃあいい」
     一瞬嫌そうに顔をしかめはしたものの、ミツキを助け出すことについて閃光は否定をしなかった。
     〈魔法術〉を行使しようとする場合、最も隙が生まれるのは獲物が揃って能力が顕現しようとする、まさにその瞬間だ。今回も例に洩れず、彼らはロキが運んだ指輪で〈魔術式〉を発動させようとするだろう。だが恐らく、ウォルフたちはまだ『本当は指輪が三つ必要なこと』を知らない。一瞬でも動揺してくれればこちらのものだ。
     そうしてそんな唯一の僅かな隙を狙い、人の裏を掻いて欺いて来たからこそ、閃光はいくつも不可能と言われる罠をかい潜り、目的を遂げて来たのである。
    「それで、閃光は?」
    「いつもの通り、潜り込んでかっ攫う」
     ニヤリと笑う主人には、もう手筈と算段がついているのだろう。ロキも毎度詳細は聞かない。下手に打ち合わせなどしていたら、その場で自然な振る舞いが出来なくなるからだ。
    「決行は今からジャスト二十四時間後。今までよりはるかに厄介な相手だが……抜かるなよ、ロキ」
    「はい」
     ふと見やった窓の外、地平線に沈み行く太陽が、まるで己を奪い合うこの下らないやり取りを、嘲笑っているような気がした。


    * * *


    →続く