廃墟になど足を踏み入れたことはなかったが、長い間放置され人の気配がなかった建物特有の黴臭い空気が、この場所がはるか昔に忘れ去られたものであることを伝えて来る。
    ――ああ、そうだ……私はトーキョーブリッジで……
     徐々に記憶が鮮明になり、がばりと身体を起こしかけて我に返った。後ろ手に拘束されている。それが自分の持っていた手錠らしいと感触から理解して、悔しさに歯噛みしながらミツキは身体を俯せから横向きの姿勢に変えた。脚は自由なのがまだ救いだ。
     そこからどうにか上体を起こし、それなりの広さがある牢の中を見渡す。中はミツキ一人だ。一緒にいるかと思われた閃光とロキの姿がない。
    「……………」
     男女別に分けてやった、などと気を回してくれるような連中ではなさそうだから、もしかしたら既にあの橋で二人は殺されてしまったのだろうか?
    ――そうだ、バレットは……
     恐ろしい巨狼に変貌してしまった閃光の姿を思い出して、ゾッと背筋が寒くなる。破壊を糧として生きる絶対的恐怖の権現のような。逃げ惑う人々に向けて上げられた愉悦の咆哮が、未だ鼓膜の奥に残っている。
    ――本当に……〈魔術式〉の呪いであんな風になってしまうものなの……?
     ウォルフはそれが自分と閃光の本性なのだと言い、ロキは閃光が望んでのことではないと言い、ミツキにはどちらの言葉が正しいのかを判断する根拠は何もない。
     けれど少なくとも普通の人間であろうとした閃光は、あの姿をミツキに知られたくなかったことは窺えるし、彼の抱えたものを知って、何故バレットがあれほど必死に〈黄金期〉の品を求めているのか、その一端は理解出来たような気がした。
    ――怖いけど……あの力は本当に怖いけど、それでもきっと一番それを怖いと思ってるのは、バレット自身だわ……
     それはさておき、とにかくこの状況を脱しなければ二人がどうなったのかを確かめる術もない。早く逃げ出して、文保局に事態を報告しなければ。
     ミツキは腕を動かしてどうにか手錠を外せないものかと挑戦してみたが、そもそもそんなことが出来ないように縄ではなく手錠をかけられているのだ、と言うことを理解しただけだった。皮が擦れたのか手首がヒリヒリする。
    ――こんなことしてる場合じゃないのに……
     その時不意に正面の扉ががちゃりと開いて、ウォルフが一人で入って来た。
    「やあ、目が覚めたかい?」
    「………………」
    「そう怖い目で睨むもんじゃないよ。せっかくのキュートな顔が台無しだ」
     そのまま無造作な足取りで鉄格子の鍵を開けて中に入って来たウォルフに、ミツキはきゅうっと口唇を引き結んだ。唾を飲み込みたくとも緊張で喉はからからだったのだ。
     ウォルフに刻まれたヒトとは異なる獣のどの異貌よりも、全く次元の違う思考が、他人を踏み躙ることへの躊躇のなさがミツキは恐ろしい。次にどんな行動を取って来るのか予測出来ない、得体の知れなさが恐ろしい。
    「バレットに君と『暁』を交換しよう、と連絡しておいた。最も電話に出たのはあの魔導人形の方だったけどね……あの姿になると酷く消耗して、数日意識を取り戻さないんだそうだ。全く……不便なものだね」
    「そう……彼、生きてるのね」
    「自分の心配より閃光の心配かい?」
    「だって、私に指輪を持って来なきゃ……」
    「思い上がりだね。君が関わっていようといまいと、僕が取った行動に変わりはない。どの道いつかはぶつかっていたさ。そう言う運命だ」
     その場にしゃがみ込み、こちらと視線の高さを合わせながらウォルフは薄い笑みを浮かべてみせた。覗き込むように近づけられた顔は人を越えた思わず息を呑むような秀麗さだったが、やはり残忍さや酷薄さが滲むその傲慢な紫暗の眼差しをミツキは好きになれそうになかった。
    「それでもまあ、君にはまだ人質として餌になる価値くらいはある、と踏んで連れ帰って正解だったな。義賊を気取るのも大変だ」
    「…………助けになんか来ないわよ」
     実際言葉に乗せると随分と重たいものが胸の奥に積まれた気がしたが、ミツキはそれに気づかないふりをしてウォルフを睨みつけた。
    「私が消えた方があいつに取っては都合がいいもの。邪魔されなくなるし、欲しいものは手に入るし……だから、助けになんか絶対来ないわ」
    「さっきはあんなに心配してたくせに、これはまた随分と冷血漢に見られたもんだ……それともそう言う連れないところがいいってことかい? でもやっぱり男としては、女性には優しくしておくべきだよね」
     相変わらず柔らかで人好きのする笑みを湛えたまま、ウォルフは僅かに双眸を細めてみせた。徐に獣の手を伸ばすとミツキの頤を乱暴に掴み上げる。鉤爪が浅く頬を切り裂いて血が滲んだ。
    「それにしても……君はバレットのことを何も解っちゃいない」
    「解らないし解りたくもないわ……貴方たちみたいな泥棒のことなんか!」
    「表向き閃光は指輪さえ手に入れば、後は知ったことかって態度を取るだろう……でも彼はね、自分の目の前で人が死ぬのが嫌なのさ。例え昨日今日会ったような縁薄い女でも、助けられないのは耐えられないんだ」
    「………………」
    「だからこそ偽物の『暁』を受け取った君と、危険を承知の上で接触を図ったんじゃないか……僕らがそれを偽物だと判断出来ない屑だった場合と、偽物だと判断しても君を害する屑だった場合を考慮して」
     薄い刃のように浮かべられた笑みがミツキの心に突き立てられる。告げられた言葉の残酷さが無力な現実を思い知らせる。悔しさに表情を歪めたこちらの反応に満足したのか、フンと鼻を鳴らしたウォルフはやはり乱暴な仕草でミツキを突き放した。
    「餌としての役目しか果たせない無能な牝風情が……餌なら餌らしくそこで大人しく震えていろ。次に反抗的な態度を取ったら、わざわざ閃光を待つまでもない。フラストレーションが溜まった手駒共の中にぶち込むか、その場で僕直々に八つ裂きにするか、君には選択権もないことを、よくその頭に入れておくんだね」
     ウォルフがそう言って立ち上がった途端、微かに部屋の扉をノックする音が虚ろな空間に響いた。小さく舌打ちをこぼした獣が、苛立ちを隠さない声で誰何する。
    「何だ?」
    「ボス、閣下がお見えになりました」
     ドアを開けて姿を現したのはアレンだ。先の戦闘でロキに吹っ飛ばされた腕は修理も代替も間に合わなかったのか、剥き出しの傷口こそ包帯でごまかされていたものの、失われたままになっていた。
    その背後に一人、初老の男が無言で入って来る。
     厳めしい顔立ちと言い、同年代よりもぴしりとした姿勢やがっちりした体格と言い、その威圧感は軍人独特の雰囲気だ。
    「この女か……例の指輪を持っている小娘は」
     吐き捨てるように投げられた声はざらついている。
     こちらを物としてしか見ていないような無機質な響きに、ミツキの全身はゾッと総毛立った。ウォルフの口調も大概凍えた人外の冷たさを孕んでいるとは思うが、それとはまた種類を別する冷血さである。
    ――そう言えば、この人トーキョーブリッジにいた……
     ウォルフに下がっていろと言われていた、恐らくは彼の雇い主である男。閃光は確かザルツブリック皇国の軍事総督第一等補佐官、アレクセイ・ハーレンスキー伯爵だと言っていなかったか。三つの指輪の正統後継者――
    「ええ……バレットが蜂須邸から盗み出した『暁』を託された人物です」
    「でかしたぞ、ウォルフ!! やはり、欧州一の盗賊団と呼ばれる組織を纏めているだけのことはある!」
     大きく両腕を広げたアレクセイは、高まった感情のままにウォルフを抱擁した。背中や肩を叩いてその労をねぎらう。
    「…………欧州一、ではなく、世界一と呼んでいただきたいですね、閣下。ですが、二つばかり万全でないことがあります」
     苦笑しながらさり気なくその手から逃れると、ウォルフは僅かに視線を下げた。
    「何だ」
    「一つはこの女性、文保局の人間だと言うことです。下手な処断をすればかなりマズいことになるかと」
    「そのくらい何の問題ない。こんな件に首を突っ込んでおると言うことは、特務課の人間だろう? 危険な任務に『巻き込まれて』行方知れずになることも珍しくあるまい」
    「成程。では、その際の処分はこちらにお任せ下さい」
    ――どうする……どうすればいいの!?
     このままではあと数時間の内に、自分の命は握り潰されてしまうに違いない。つ、と冷たい汗が背筋を伝うミツキをよそに、男は機嫌が良さそうに問うた。
    「それで……あと一つは何だ?」
    「はい……寧ろ、こちらの方が余程注意しなければならないのですが、彼女が持っていた『暁』は偽物でした」
    「何だって!?」
     一転、目を血走らせたアレクセイは、鬼のような形相でウォルフの胸倉を掴み上げた。
    「貴様、それでは話が違うではないか! ワシを愚弄しているのか!? 何故この小娘が持っているのが偽物だと解った上で連れて来た!?」
    「まあまあ、閣下……話は最後まで聞いて下さいよ」
     刀の鯉口を切った殺気立ったアレンを目で制しながら、ウォルフはアレクセイを宥めるようにその手を呆気なく外す。そのことでようやく目の前の青年が自分を容易く殺せる男なのだと思い出したのか、彼は苦々しい舌打ちと共にじろりと視線を上げた。
    「ご心配は尤もですが、本物を持つ者――怪盗バレットとは既に連絡をつけております。本人はまだベッドから起き上がれないとかで、部下の魔導人形がではありますが、もうしばらくしたらここに持って来てくれますよ」
    「コソ泥風情がふざけた真似を……」
     腹の虫が収まらなかったのか、アレクセイは乱暴に鉄格子を蹴り飛ばした。派手な音を立てて檻が揺れ、ミツキは思わず身体を強張らせる。老朽化し、絶えずこぼれて侵食する水滴が、頑丈なはずのそれを食んで脆くしているのだろう。
    「まあいい……本当に指輪が揃うと言うなら、今しばらく待とう。間違いなく確かな話であろうな?」
    「ええ、それは間違いなく」
    「だったら、少しお前たちは席を外していろ」
     訝しそうに眉を寄せたウォルフへ、アレクセイは下卑た笑みを浮かべてみせた。
    「どうせ処分してしまうなら、暇潰しに使った後でも問題あるまい? 何ならお前たちも混ざるか?」
    「ああ……成程、そう言うことですか。結構ですよ、遠慮します。僕はそんな趣味はありませんから。行くぞ、アレン」
    「ボス……いいんですか」
    「構わない。魔導人形がこっちに向かっている時点で、この女は用済みだ」
     アレクセイが一体何をしようとしているのかを理解して、ミツキはぎょっと顔を強張らせた。慌てて、鍵を渡して立ち去ろうとするウォルフの背中に叫ぶ。
    「ちょ……ちょっと待ってよ!! 女の子のピンチを黙って見過ごすつもり!?」
    「言っただろ。君はもう用済みだ。男が優しくするのは女が利用価値のある内だけだと、いい勉強になっただろう」
    「そんな……」
     ばたん、と容赦なく閉ざされた扉に絶望感だけが募った。全身が恐怖で強張る。これならさっきあっさりとウォルフに斬られていた方が随分とマシだったに違いない。少なくともそれなら自尊心だけは守れた。こんな屑の慰み物になったりせずにすんだのだ。何故こんな時に、抵抗するための武器が手元にないのだろう。
     鍵を開け、ゆっくりとした動作で牢内に入って来るアレクセイに、後退さりながらミツキは悲鳴を上げる。
    「来ないでっ!!」


    →続く