外れた軌道を描くものを無視して、己に迫る弾丸をウォルフは抜く手も見せずに斬り捨てた。ぱらぱらと役目を果たすことなく残骸となって足元に転がるそれを踏み越えて、白い獣は愛刀を振りかぶると閃光に躍り掛かる。
    「終わりだ、バレットォォオオオっ!!」
     その切っ先で一息に閃光を貫こうと腕を引いた瞬間、己の体内に走った違和感にウォルフはぐらりと視界が揺らぐのを自覚した。手足から力が抜けて冷たく感覚を失っていくのとは反対に、肺腑の奥が灼熱を押し込まれたように焼け、同時に何かが迫り上がって来た。遅れて『背後から』噛みついて来た弾丸に、数ヶ所身体が穿たれる。
     中空でバランスを失い地面に倒れ込んだウォルフの口から、ごふりと血塊が溢れた。負った傷はそれほど重傷ではないはずなのに、身体を痙攣させてうずくまる異常な様子に、アレンは手にしていた愛刀を投げ捨てて駆け寄った。
    「ボス……っ! ボス、しっかりしてください!! 一体何が……」
     片腕のままどうにかウォルフを抱え起こすと、主人は血の泡を噴きながら声を押し殺して笑っていた。
    「成程……アリル、プロピルジ…スルファイド、とは考えた……いか」
    「…………実地体験済みなもんでな」
     アリルプロピルジスルファイドは玉葱類や韮などに含まれる成分で、犬科生物の血中において赤血球を破壊することで有名である。
     中毒症状を引き起こし、酷い場合には死に至らしめることもあるそれを、閃光は弾丸に込めておいたのだ。弾薬の中に含まれたそれが空気中に拡散することで、鼻や皮膚の粘膜から血中に侵入すれば、経口摂取と変わらぬダメージを与えることは可能なはずである。撃てば前回と同様にウォルフは弾丸を斬り捨てると踏んでの、急遽の仕様変更だった。
     己が常に風上に立っていることを気づかれないかと内心冷汗をかいていたのだが、中近距離の戦闘に特化した刀遣いであるウォルフは、いつもそこまで風向きを気にしたことがないのだろう。
     それに加えて今回は、この前のように開けた場所でなかったことが閃光に幸いした。跳弾はこんな狭い場所でなければなかなか上手く作用しない。
     閃光は冷ややかな眼差しをアレンに向けると、
    「そんな成りのテメーにこんなこと言うのも筋違いだが、早いとこ病院連れて行った方がいいぜ、そいつ。俺たちゃちょっとばかり丈夫でも、無敵でもなきゃ不死身でもねえ……こんな下らないことでも死ねる」
    「ふざけるな……勝負はまだ終わってない! 僕はまだ、『落陽』を持ってるぞ!!」
     震える手足に力を込めて刀を支えにしながら立ち上がると、ウォルフは閃光を睨みつけた。そちらへゆっくりと視線を向けながら、閃光はふーっと紫煙を吐き出す。掲げられたその右手には、蒼く輝く石を抱く小さな指輪が握られていた。
    「な…………っ!?」
    「テメーが持ってるそいつは、確かに『本物の落陽』か?」
     その言葉にハッと顔を強張らせると、、ウォルフは慌てて先程内ポケットにしまったはずの『落陽』を探る。指輪は確かに入っていたが、その表面に刻まれているのは彼の家紋である一角獣ではなく、今まで幾度か目にしたことのあるバレットが予告状に記す狼の紋章だった。
    ――そう言えば……
     先程、アレクセイはらしくもなくこちらの功績を讃えて自分を包容したではないか。それが閃光の変装であったとするならば、その一瞬の接触の際すり替えられたのだろう。隠し場所はウォルフしか知らないはずだったが、そこは蛇の道は蛇と言うところか。
     他の人間を鼻先目の前で欺くのはまだしも理解出来るが、よもや五感は閃光自身と変わらぬはずの自分まで出し抜くとはウォルフも思っては見なかった。
     その気になれば、閃光は自分自身をも騙すことが出来るのだろうか?
    「貴っ様…………」
    「まあまあ、そんなにこの指輪の力が欲しいなら、そこで俺たちがやることを指くわえて見てりゃいいじゃねえか。どの道テメーらにゃ〈魔力〉の顕現は出来ても、〈魔術式〉を明らかにすることは出来ねえだろ。〈魔法術〉が発動するまで、本当はそれが一体どんな力を持っているのかは……解らねえはずだ」
    「……何が言いたい」
    「こいつらの中身を暴いたところで、多分テメーには何一つ役に立たないもんだぜ? そして恐らく、『本物』の伯爵サマにもだ」
     紫煙をくゆらせながら閃光は己が掌中に収めた指輪を三つ、相方へと放り投げた。それを一つも取りこぼすことなく受け止めてから、ロキは太陽の名を冠する指輪たちへ意識のリンクを繋げた。
    「ロジックオープン……ダウンロードにより、〈魔術式〉を視覚化します」
     蒼い光を放ちながら指輪がゆっくりと浮遊する。こうした手段があることは知っていたかもしれないが、実際に見たのは初めてだったのだろう。ウォルフもアレンも場の空気に飲まれてしまったかのように、黙ったままロキの所作を見詰めている。
     『暁』から始まり『天道』へと連なり『落陽』で終結する膨大な量の〈魔術式〉が、そこに込められた莫大な魔力が、この狭い洞窟の中で解放される。持ち主に永遠の繁栄を、富と権力を約束するはずのそれは、しかし神や悪魔を召還するのではなく、無限に金を生み出す何かが現れるでもなく、静かに一冊の本の形を取っただけだった。
     あまりにも呆気ない結末に、それを手にした閃光が差し出してくれるのを待てず、ウォルフは立派な鞣し革の表紙がついた本を引っ手繰った。
     隠し財宝の在処でも書いてあるのかと思えばそれは、ひたすらに穏やかな日々を書き綴った歴代当主の日記帳であった。そのどれもが繁栄を支えてくれる者たちに感謝し、どう次の世代へ繋げていこうかと思考し、継いだ者へ忘れてはならない配慮を提言したもので、綺麗事を並べた体のいい家名存続のためのいろは本にしか見えない。
     ウォルフに取っては何の役にも立たない――虫酸が走るような代物だ。
    「馬鹿な……これだけ? この膨大な演算式をして手に入るものが、たったこれだけだと!? 閃光、何か仕掛けてるんじゃないだろうな!?」
    「この期に及んでそんな真似するかよ。それとも……『永遠の繁栄』なんて不確定で曖昧なものが、〈魔術式〉でどうにか左右出来るなんて本気で思ったのか?」
     ゆっくりと紫煙を吐きながら、閃光は呆れた眼差しでウォルフを見やった。
    「どうしてこれが『暁』『天道』だけじゃなく、『落陽』なんて不吉な……繁栄には相応しくない名前の指輪まで組になってるんだと思う? 移ろわないものなんて、この世界にゃ存在しねえからだ。永遠の象徴と言われる太陽だって、こんなにも揺るぎやすく脆く崩れやすい」
    「…………」
    「ハーレンスキー伯爵家は確かに〈黄金期〉に莫大な資産を築き、栄華を極めた。時の皇帝すらその顔色を伺ったって言われるくらいだから、相当なもんだろう。だが、その権力と財に目の眩んだたった一人が相続争いを仕掛けたことで、見る見るうちに没落し、挙げ句の果てには革命の槍玉に上げられて圧政の黒幕として一族郎党皆殺しだ」
     まるでその終焉を示すかのように、空中で展開されていた〈魔術式〉が崩壊していく。ロキが指輪たちにアクセスして〈解の式〉を流し込んでいるからだ。一度形を失い始めると、美しければ美しい演算式であるほど壊れていくのは早い。
    「確かに〈存在固定粒子〉に働きかけ、物理的に豊かになることは難しくねえだろう。問題はそれを運用する人間の方だ……こればっかりは、魂の在り方だけは、ついに『魔女』も解き明かせなかった『人間の最大の謎』らしいからな」
    「馬鹿な……僕は認めないぞ! こんなもの……こんなものが、今まで多くの人間から探し求められて来た〈魔術式〉だって言うのか!!」
    「本当の豊かさってのは、こんな低俗で下らねえ金だの権力だのじゃねえってこったろう。太陽みたいにいつも傍にあるせいで気づかない……当たり前の幸せなんだろうさ。俺やお前とは絶望的なまでに無関係な、な」
     やがて指輪たちが放つ蒼い光は弱まり薄れていき、力尽きるように消えて失せた。音もなく岩盤の上に転がった指輪へ歩み寄ると、閃光は迷うことなく『天道』を拾い上げる。
    「悪いが、これだけは貰って行くぜ。お嬢ちゃんに『絶対返す』って約束しちまったからな。あとの二つはテメーの好きに処分しろ」
     話は終わりとばかりにさっさと踵を返す閃光へ、ウォルフは自嘲気味な笑みを浮かべた。もう追うだけの気力も残っていないほど〈魔法術〉の中身にがっかりしたのか、それとも本格的に身体がヤバくなりつつあるのか、その双眸に先程までの力はない。
    「君は……本当に指輪にも〈魔法術〉にも興味がないんだな。何故だ?」
    「………………以前、とある男から『お前に持たざる者の気持ちは解らない』と言われたことがある」
     くゆらせる煙草の紫煙が向かうどことも知れない先を見つめ、閃光は背後を振り返ることもせずに歩き出した。
    「俺に言わせりゃ、それはお互い様だ。望まないものを生まれた時から無理矢理押しつけられて持たざるを得なかった奴の気持ちを、そいつは一生解らないだろう。俺は『特別』なんてものになりたくなかった。テメーに言わせりゃそれは、ただの怠惰で欺瞞で逃げの脆弱で下らない願い……なのかもしれねえけどな」


    →続く