一瞬――
     世界中の音と言う音が止まってしまったのではないか、とナナキは思った。実際には、己が瞬間的に呼吸を止めてしまっただけに過ぎない。思わず立ち止まってしまったこちらに気付かず、カゲトラはそのまま歩いて行く。
     世界屈指の規模を誇ると帝国政府が自負しているヒノモト帝国軍は、戦役義務を持つが故に特権階級として様々な利権を握る士族を中心に構成されているが、その実彼らの数は決して多くない。
     ましてや、前政権の頃に前線で世界大戦を経験し生き残った猛将ともなればさらにその数を減らし、いざ戦となった時どれほどの士族が自らの存在意義を懸けて命を投げ打ち、敵と闘えるのかは甚だ疑問である。
     では、その大半の戦力を担っている実働の末端部隊が何であるかと言えば、強制徴兵によってかき集められた平民たちだった。
     士族が盾であり矛であると言う建前上、ヒノモト帝国は徴兵制を採っていない。
     だから、本来なら戦に出るのは士族のみであるべきなのだ。しかし、無論彼らとて無敵ではないのだから、戦線に立てば怪我もするし下手をすれば戦死もする。
     幼い時から武道を修めて、それなりに腕の立つ者を育てるのが士族の最大の納税とも言えるが、そんな悠長なことをしている内に補充が必要な状況は刻々と生まれる。
     そこで軍部が採ったのは、彼らを無駄に消費しないために土嚢代わりの壁を見繕うことだった。矢面に立ち、弾丸に狙い撃ちにされるその役割を担うのは、当然ながらその数の多さから言って平民しかいなかった。
     かくして帝国軍は平民狩りと呼ばれる強制徴兵を執行し、嫌がる彼らを拉致して無理矢理の訓練もそこそこに最前線に立たせると言う最悪の選択をしたのだ。
     権力を振り翳されて蹂躙された挙げ句、捨て駒として使い捨てにされる現状は、人々の不満だけを募らせた。
     反政府組織に属していなくとも、殆どの平民が政府を憎み中でも軍部を蛇蝎の如く嫌っているのは、自分たちだけが甘い汁を吸い、守って、猫可愛がりをしていることを隠しもしないからだ。
     彼らに取って国民とは自分たち上流階級の人間のみで、本来それを支える守るべき民は消費して当然の家畜であることを、公言して憚らないからだ。
    「ナナキ? おい、どうした?」
     こちらの気配がないのを察したカゲトラが、くわえ煙草のまま振り返る。
    ――知っていたはずじゃ……
     軍部に平民の志願兵はいない。
     名字を持たない平民の兵は、須らく平民狩りによって集められた者だ。
     頑とした階級身分制度は、軍の中にそのまま持ち込まれる。平民はただ死ぬためだけに最も過酷な戦況の場から順に配置され、例え武功を挙げたとしても出世などすることはない。重たい荷を運び、食事の準備をし、ろくに休む間も与えられないから、例え戦死しなくとも奴隷として酷使されて病にかかって死ぬ。
     カゲトラは十年――そうやってこの世の地獄のような場を生きて、生き延びて来たのだ。
     ナナキが動かないからだろう。舌打ちをして苦い顔で彼が戻って来る。乱暴な足取り、大きな掌が思ったよりは優しく俯いた両頬をむに、と摘まんで持ち上げる。
    「腹でも減ったか? こんなとこで貧血か? それともその高い踵のせいで足でも挫いたか?」
    「…………すまぬ」
    「……ったく、何だってんだよ。はっきり言わねえと解らんって言っただろ!?」
    「嫌な話をさせた」
     玖街(くがい)を訪れる機会が皆無だった訳ではないから、その気があればコチョウの元に顔を出すことは不可能ではなかっただろう。
     けれど、カゲトラは足を向けなかった。彼女の恩義を仇で返すような真似をする立場で、例え彼が望んでそうなった訳ではないにしろ、育ての親の落胆する様を見たくなかったからだろう。
     が、カゲトラは眉間を寄せて再度舌打ちをすると、ぺしっと控え目にナナキの額を指先で弾いて寄越した。
    「訊いといてそんな面すんな。俺ぁ自分を惨めだとも不幸だとも思ったこたぁねえ。ここじゃそんな話は珍しくも何ともねえんだ」
    「だが……」
    「それと同じくれえ、一兵だろうと反乱軍の人間だろうと、国を引っ繰り返すなんて馬鹿げたことが出来ると信じる馬鹿でもねえ。だったら、今出来ることやるしかねえだろ。少なくとも、テメーはその責務と力を背負わされた。俺はそれに手を貸さなきゃならなくなった。二人で全部は無理でも守れるもんはある。余計なこと考えねえで、テメーはクソ鼠をぶっ殺すことだけ考えろ」
     今朝方まではいろいろ思うところがあったように苦虫を噛み潰したような苛立った顔をしていたくせに、これと決めて迷いがなくなれば、こんなにも真っ直ぐな目をする男なのか。その力強い言葉は態度は、ぐいとナナキの気持ちを引き上げる。
     少しひりつく額を擦りながら、それでも少女は「うむ」と視線を上げて頷いた。
    「よし」
     カゲトラが軍帽越しにくしゃりと頭を撫でる。初めてにかりと浮かべられた存外柔らかな笑みに、不覚にも胸の奥がきゅうと疼いた。


    →続く