カゲトラのその視線を受けて気付いたのだろう。ナナキはハッとしたように頭に手をやり、帽子が脱げたことを理解したらしかった。
     彼女が外に出る時必ず軍帽をきっちり被るのは、礼儀を失すると解っていてもなお、コチョウの前でその鍔に指先すらかけなかったのは、何も軍部の威光を示したいからではない。この角を――ヒトとは異なる存在であることの何よりの証の異物を、他人の目から隠すためだ。必要以上に恐れられないためだ。
     思わず思考停止してしまったらしい彼女に変わって、手を伸ばして軍帽を拾い上げると、カゲトラはそれを被せざまナナキの頭を抱き寄せた。
    「すまん」
    「…………いや、平気じゃ。大事ない」
     思ったよりもすぐにしっかりした声が返って来る。立ち上がり、女を見据えたまま得物を握り直したナナキは、きゅっと定位置に軍帽を直してから、
    「そっちの露払いを頼む。言っておくが、ナレノハテは心臓や頭を潰しても死なぬぞ」
     その言葉通り、振り向いたカゲトラの視線の先で先程斬ったはずのナレノハテたちがゆっくりと立ち上がった。ただし傷が修復した訳ではないから、いろいろ垂れこぼしながら半ば機巧に引き摺られている、と言った方が正しい表現かもしれないが。
    「げ……」
    「奴らは別に動力駆動がある。だから本当なら全部吹っ飛ばした方が早いんじゃ」
    「そう言うことは早く言え!!」
     群れに向かって駆けながらカゲトラがシュラモドキを大砲へ変形させようとした瞬間、ひゅん、と微かに耳元で小さな風切り音がした。
     銃声とは違う。鋼が空気を切り裂く音でもない。もっと細く軽やかなそれは、ナナキが対峙する女からでも、己が迎え撃とうとしたナレノハテたちからでもない方向から放たれたように思えた。
     ぴりりと頬に鋭い痛みが走る。触れてみればまるで鋭い爪で引っかかれたような傷が走っていた。血は僅かに滲んでいるだけだ。
     咄嗟に背後を振り向く。
    「ナナキ!!」
     カゲトラの視界にばっと赤い血の華が咲いた。ナナキがまるで身体の自由を奪われたように硬直した姿勢のまま、どおっと地面に倒れ込む。
     が、駆け寄ろうとした足は、地面を這ってこちらへ接近していたナレノハテに掴まれて押さえ込まれ、身動きが取れない。凄まじいまでの腕力だ。ぐぱぁ、と大口を開けてこちらに牙を突き立て、血を啜ろうとする図々しい一体にはその喉奥へ切っ先をぶち込んで地面へ縫い止めてやったが、ナナキはまだ起き上がっていない。
    「か、は……っ、」
     まるで呼吸が上手く出来ないかのように青褪めた顔色で、目元には涙が滲んでいる。ぴくぴくと小さく振るえているのは、某かの理由で痙攣しているせいか。
    「ナナキ!! 何してんだ、立て!! 放せ、くそったれ共が!!」
    「立てやしないよ、いくら彼女がマガツヒトでも……いや、マガツヒトだからこそと言った方が正確かな」
     ざ、とカゲトラの横合いから現れたのは、瓦斯(ガス)灯に拘束しているはずの丸眼鏡の男だった。いつの間にかその両手は専用の革手袋に覆われている。先程投げられたのはやはり鋼糸だったのだろう。
    「テメー……どうやって……」
    「嫌だなあ、縄抜け手錠外しくらいの訓練は君だって受けてるだろう? 医療現場では糸を使うことも多くてね。まあ、ボクは武器として使えるほど上達しなかったから、こうして拘束するくらいがせいぜいだけど」
    「あいつに何をしやがった!?」
    「心配しなくとも毒なんか塗ってやしないよ。あの鋼糸は銀製なんだ。しかも、普通の市場に出回ってる錫やら何やらの混ざり物が一切ない純銀……ああ、マガツヒトにとっては毒に等しかったんだっけ?」
    「…………!!」
     しかし、カゲトラに男の長口上を聞いている余裕はなかった。ほんの僅かな血の匂いに群がるようにナレノハテたちが襲いかかって来たからである。繰り出されるいくつもの機巧を切っ先を弾き、受け止め流して捌くがきりがない。
     この際致命傷にはならない攻撃は食らうことを覚悟して、カゲトラは起動させた蒸気弾発射器の引き金を引いた。粉砕された憐れな同胞を物ともせず、繰り出された鉄索(ケーブル)が鞭のように唸って横腹に叩き込まれる。
    「……っ、く……ぅあ!」
     壁に激突してぐらりと視界が歪んだ。どこか衝撃でやられたのか、咳き込んだ弾みで競り上がって来たものを吐き出せば掌が真っ赤に染まる。
     そんなカゲトラを捨て置いて、男は悠々とした足取りでナナキへ近付いた。既にぐったりとしたその体躯は、女の機巧が軽々と持ち上げている。
    「ナナキを放せ……っ!!」
     手を伸ばすが、その彼我の距離は遠い。
    ――くそったれ……っ!!
     身体が重い。まるで自分だけ時間の流れ方が遅くなってしまったかのような、溶け出してしまったかのような錯覚に陥りながら、カゲトラはそれでも腕だけで地面を這い、立ち上がろうと足に力を込める。
    「悪いね。でも、ヒナギクを生かすためだ。まさか唯一無二のマガツヒトが手に入るとは思わなかったけど、これも天がボクの成していることを正しいと、認めてくれた証拠じゃないかな?」
    「ふざけんな……」
    「これだけ強大な生命力を糧に出来たら、きっとヒナギクは何より強い存在になれる……礼を言うよ、軍人さん」
    「待て!! 止まれ!! ナナキ……っ、ナナキ――っ!!」
     叫んだはずの言葉は声にならない。
     勝ち誇ったようにゆっくりと遠ざかって行く背中を睨みつけている内に、ふつりとカゲトラの意識は途切れた。


    →続く