が、黒須はそんなカゲトラの事情など知る由もない。いや、例え知ったところで恐らくこの男は「そんなことを言わずに、せっかく組むんだから仲良くね」と笑うだろう。その柔らかな物腰は怖がられたことなどないだろうから、こちらが何を警戒しているか解らないはずだ。
     そうこうしている内に、黒須は階段を降りて地下へ向かい始めた。
     始めの頃こそ普通の様子を呈していたが、幾度か折り返す内に造りが次第に頑丈になって行く。足音の反響具合から察するに、壁は鋼鉄の板を何枚も重ね合わせて作られているようだったし、何より何度も分厚い扉を潜ったことから考えても相当深い場所だ。
     目的の部屋に近付くに連れて、廃棄区画へ入る時に感じた警鐘が強くなって行く。
    ――ヤベぇ……これは、相当ヤベぇぞ……
     かつて感じたことのない気配に背中がぞくぞくした。残念ながら、カゲトラはこの手の勘が外れたことがない。
     やがて一際大きな舵のような輪がついた扉の前で、黒須は足を止めた。中央の鍵穴へ懐から取り出した大きな錠を差して回す。がちり、と歯車が噛み合って奥できりきりとゼンマイが動く気配。重たそうな扉が面倒そうな鈍い仕草でゆっくり開いて行く。
    「いやぁ、今さらこんなこと言うのも何だけど、正直ここまでよく着いて来たね、カゲトラ君。大体の人は途中で逃げるか、そこまでしなくてもその気配を滲ませて足が進まなくなるものなんだけど」
    「今すぐ帰っていいなら帰るけど。っつーか、帰る場所とかねえし。まあ、飯の分くらいは働かねえとな」
    「いいねぇ、君のそう言うとこ嫌いじゃないな」
     言いながら、黒須は歩みを再開する。
     扉の向こうは真っ直ぐに続く廊下だった。一定感覚で瓦斯(ガス)灯が備えられているものの、最小限に絞られているため薄暗い。それが却って不気味さを増長していた。
     すぐ突き当たりに立派な――これは至って普通の木製だ――扉が佇んでおり、黒須はそれを小さく叩いてから静かに開けた。
    「ナナキ君、今いいかい?」
    「うむ。主が顔を出すのは珍しいの、黒須」
     中から返って来たのは若い女の声だ。
     彼女が食事を準備してくれたと言うこれからの仕事の相棒なのだろうが、それにしては上官である黒須に対して口の効き方がぞんざい過ぎる。自分のことを棚に上げているようであれだが、それとは別に黒須自身が一歩下がってへりくだっているような気配がするのだ。
    ――オンナの方が身分が上、とか……?
     訝しく思いながら戸口で待っていると、黒須から手招きされる。仕方なくそれに従って室内に足を踏み入れたカゲトラは、思わず息を飲んだ。
    「うん、ほら例の彼を連れて来たんだよ。もう少し待った方がいいかとも思ったんだけど、回復早くてね。顔を合わせるなら早い方がいいだろうなって」
     そこはまだ事務所然としていた上階の部屋とは違って、完全なる居住空間だった。
     俗に言う居間に当たるのだろう、柔らかそうな長椅子に低めの卓、何語か解らない文字で綴られた本がびっしりの書棚、色鮮やかな花の生けられた花瓶、壁にかけられた異国の風景画など、生活感が感じられる内装になっている。
     が、カゲトラが驚愕したのはその様では勿論ない。
    「ああ、これがそうか」
     長椅子から立ち上がったのは年の頃十七、八くらいの少女だった。
     背中まで伸びた艶やかな鴉の濡れ羽のごとき黒髪、抜けるように透き通った白磁の肌、すらりとした肢体が纏うのは鮮やかな赤を基調とした着物。カゲトラとは逆に黒の線が入った軍服風ではあったが、やはり和洋折衷の造形でよく似合っている。
     が、その長い睫毛に縁取られた双眸は異貌の黄金(きん)。そして何より、その額からはまるで皮膚がそのまま硬化してしまったかのように一対の角が生えていた。
    ――その言葉、そっくりそのまま返してやんぜ……
     再三感じていたヤバい気配は彼女そのものだったのだ。びりびりと全身の細胞が撤退を命じる。これは生物的に根元から『違う』ものだ。力や技術や道具でどうにかなるようなものではない。この差は『決して覆らない』。
     少女――ナナキはざっとカゲトラの頭から爪先まで値踏みするような視線を這わせると、にこりと笑みを浮かべて見せた。
    「お初にお目にかかる。わしの名はナナキ。帝国軍第十三大隊唯一無二の戦闘部隊員じゃ。主の名は?」
     それは何も知らなければ、何も感じなければ、男なら誰しもどきりとさせられる魅惑的な笑みであったに違いない。しかし、その目が獲物を押さえつけている猛獣のように己を見据えていることを、カゲトラは察してしまった。その上で彼女が尻尾を巻いて逃げるなら今の内だと、こちらを試すように計っていることも。
    ――ナメんじゃねえぞ……
     ぎっと歯を食い縛って叩きつけられるその目に見えない重圧を踏み留まると、カゲトラは姿勢を正してナナキを見やった。
    「俺はカゲトラだ。今日付けで第五からこっちに異動になった。よろしく頼む。飯、ありがとな。美味かったぜ」
     声が震えないよう最大限腹に力を込めてそう告げると、ナナキは一瞬驚いたように目を丸くした。まさかそんな風に返されるとは予想だにしていなかったのか、ぱちくりと瞬いてから、やがて面白がるようににんまりと笑みを浮かべる。
    「成程……わしのこの姿を見て取り乱しもせず、質問もせなんだ奴は初めて見たな。主、面白い男じゃの。これはしばらく退屈せずにすみそうじゃ。黒須、感謝するぞ」
    「いやいや、礼には及ばないよ。こちらとしても、長いこと主力って言うか唯一無二の人員に抜けられる訳には行かないからね。じゃあ、カゲトラ君。私は上にいるから、業務の説明はナナキ君から受けてね」
    「あ、ちょっ……おい、オッ……黒須サン!」
     止める間もなく、ひらひらと手を振った黒須はさっさと扉を閉めて部屋を後にしてしまった。初めて顔を合わせてからこっち、ろくに説明をしてくれない上官であったが、ここまで見事に投げっ放しにされるといっそ清々しさすら覚える。
     業務を行うなら明らかに上階の部屋の方が似つかわしかったが、カゲトラは諦めて小さく溜息をつくとナナキに向き直った。
    「で? 俺は何をすればいいんだ? 言っとくが、自慢じゃねえけど俺は事務仕事とか超絶苦手だからな」
    「本当に自慢にならんの。心配せずとも、そんなことは主の顔を見たら解る」
     さらりと失礼な発言をしながら、ナナキはゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。
    「言ったじゃろう、主はわしの相棒……そして、わしは第十三大隊『唯一無二の戦闘部隊員』じゃと」
     白い手が無造作にカゲトラの胸倉を掴む。咄嗟に反応するより、華奢なはずの腕が自分より大きな体躯を引き寄せる方が早かった。
     避ける間もなく柔らかな口唇が重なる。


    →続く