どこか遠くで、誰かが泣いている声が聞こえる。
    ――うるせぇ……
     耳障りなその音に苛立ちを覚えて、カゲトラはゆっくりと双眸を開いた。
     身体全体が沈んで行くような感覚がする。そのくせ身体の感覚自体は薄ぼんやりとして不確かで、自分が立っているのか座っているのか寝転んでいるのかすら曖昧だ。
     けれど視界いっぱいに広がる真っ白の世界は目の前に確かにあるのに、見えない壁一枚を隔てているような、銀幕活劇映画を観ているような、現実感を伴わない暗灰茶(セピア)色の空気の匂いがした。まるで自分だけここにいてはならない異物のような。
    ――取り敢えず、これぁ俺死んだな……
     妙に冷静に納得して、がしがしと後ろ頭を掻きながら溜息をつく。せめても内部から痛手を負わせてやろうと陰人(オンヌ)の口腔に飛び込んでみたものの、そんな間もなく取り込まれてしまったのだろう。
    ――我ながらダセえ……
     とは言え、こんなところにいてもどうしようもないと辺りを見回すと、徐々に周囲の物の輪郭が浮かび上がって来る。一面真っ白に見えた世界は、カゲトラにとっては珍しくもない帝国軍の医療施設だった。ただし、いつも彼が世話になっている平民出身兵がぶち込まれる野戦病院のようなわちゃわちゃした相部屋ではない。
     壁紙も窓幕布(カーテン)も一等上質な品が使われているここは、恐らく中流階層区画でもかなり地位の高い人間だけが出入り出来る施設だろう。
     その部屋の窓際に置かれた寝台の上で、一人の少女が膝を抱えて泣いていた。どうやらカゲトラが意識を取り戻した際の声の主は、彼女であるらしい。
     病院着ではなく自前らしい薄桃色の着物を纏い、色素の薄い柔らかそうな髪を緩く結っている。太陽に当たらないせいなのか、そのうなじは華奢と言うよりげっそりと細く、敷布の色と変わらないほど白い。顔は伏せているのでよく解らないが、漠然とカゲトラは彼女の正体を理解した。
    「お前、ヒナギクか」
     ぎっ、と踏み締めた床板が思ったより大きな音を立てたせいでか、慣れぬ軍靴の硬質な足音がやたらと凶悪に聞こえたのか、少女――ヒナギクはびくりと身体を強張らせて恐る恐ると言ったように顔を上げた。
     まさか人がいるとは思っていなかったのか、泣き腫らして真っ赤になった目には警戒の色が浮かんでいる。
    「誰……? 私のお見舞いなんて、お兄ちゃんしか来ないはずなのに……」
    「あー……えっと、その……あれだ、お前の兄ちゃんのとも……いや、違うな。同僚、みたいな?」
     歯に衣着せぬ物言いが常のカゲトラにしては珍しく、どう言葉を選ぶべきかとしどろもどろな口調になる。
    ――ヤベえ……これ、苦手な奴だ……
     初見で泣かれなかったのは重畳だが、カゲトラは女子供が不得手だ。特にこんな地雷だらけの繊細そうな、ちょっとしたことでもすぐに傷ついて泣き出してしまうような感じの娘とは、最悪の相性だと言っていい。そんなつもりなどさらさらなくとも彼女らにとって己は、棘だらけの爪牙鋭い獣なのだと事あるごとに思い知らされる。
     けれど、その答えにヒナギクは驚いたように少しだけ目を丸くして、柔らかく笑った。
    「お兄ちゃん、ちゃんと友達いたんだ……よかった。わざわざありがとう」
     それは蕾が綻んで花開くような、儚げで愛らしい笑みだった。普通であれば庇護欲を掻き立てられて、胸の奥がざわついたりするのかもしれないが、カゲトラは何とも首筋の辺りがむずむずして収まりが悪く感じる。
     昔からどうにも慣れない感覚だった。
    「いや、別に……座っても?」
    「あ、ごめんなさい。どうぞ」
     友達なんかじゃねえ、と否定したいのをぐっと堪えて傍らの丸椅子を指差すと、ヒナギクは慌てたようにそれを勧めた。許可を得て取り敢えず腰を下ろしたものの、はてさて何から話せばいいものか、とカゲトラは内心で首を傾げる。
    「ふふ……嬉しい。ここのところ、お兄ちゃんも研究で忙しいってなかなか来てくれなくて、退屈だったの」
    「そうかぃ、そりゃよかった」
     元来人見知りなのか、あまり目を合わそうとはしてくれない。けれどこちらへちらちらと伺うように視線を向けて来るのは、普段接したことがないような性質のこちらが珍しく、興味を持ったからなのだろう。
     意を決して、問いを言葉に乗せる。
    「訊いていいのか解んねえんだけど」
    「何?」
    「お前の兄ちゃん教えてくれなかったんだが、ヒナギクは何の病気なんだ? 調子悪いのかよ?」
     それを聞いた途端に案の定、彼女は表情を翳らせた。答えずに泣き出すか、出て行ってと叫ばれるかのどちらかだと思ったが、辛抱強く待ち続けると根負けしたのか重たそうに口を開く。
    「血が……腐って行く病気なの。だから、定期的に駄目になった血と新しい血を入れ換えなきゃならなくて……でも、最近はそうするより先にどんどん身体が壊死して行く方が早くて……」
     掛布で隠されたままだった手足の先を、そっとヒナギクは晒した。包帯をぎこちない手付きで解いた下から露になったのは、焼け爛れたように腐蝕した肌。どす黒く感じるほど鬱血したような痣とも蕁麻疹とも取れる痕が、痛々しく刻まれている。


    →続く