「…………触れたら痛えのか」
     問えば、ふるふると首は横に振られる。しかし伸ばそうとした手は払われた。
    「駄目。感染(うつ)っちゃうよ」
     じくじくと膿んだ部分を庇うように包帯を巻き直しながら、ヒナギクはそう視線を逸らして自嘲気味に笑った。
    「この国じゃ、今まで誰もかかったことがない病気なんだって。もしかしたら異国には症例があるかもしれないけど、どちらにしろ血清は手に入らないだろうって。だからお兄ちゃん、自分が作ってやる、絶対治してやるからって……でも、本当はそんなのどうでもいいんだ」
     そんなにすぐ作れるものなら、きっと彼女の病気はここまで進行などしていなかっただろう。
     過去に例がないと言うのなら、その侵された血から原因となる感染源を特定することすら容易ではないだろうし、もしそれが突き止められたところで今度はその生態を解明し、感染とその繁殖、人体への影響の仕組みを調べ、さらにその対策を取らねばならない。
     それこそ何十年と言う月日と、膨大な献体と研究費用を注ぎ込まなければ、試薬すら作れないことくらいカゲトラにだって想像に難くないことだ。たった一人でそれをやろうだなんて無謀にもほどがある。
     そしてきっと、それら全てが揃ったところで薬の完成まで彼女の身体は保たないのだろう。少なくともヒナギクはそう踏んでいる。
    「研究なんて、しなくていいのに……来る度にぼろぼろに疲れた顔して、寝ないで心血注ぐようなことじゃあ、ないのに……たった一人の家族なのに、そんなのより……傍にいて欲しいのに」
     黒目がちな双眸から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。掛布をぎゅっと握り締めるヒナギクに、思わず舌打ちをこぼしそうになり、慌ててカゲトラは口元を掌で覆った。
    ――泣くなら、何で本人にそう言って伝えねえ……
     もどかしさはやがて苛立ちへと変わる。泣いているだけでは蹲って足を止めているだけでは、何一つ変わるはずなどない。自らの想いをぶつけて発して知らせなければ、他人には伝わらないのだ。
    『みんながみんな、あんたみたいに強いんと違うんよ。躊躇する人もおる。伝えても受け止めて貰えないことは、腐るほどある』
     子供の時分にコチョウからそう何度となく説教されたものだが、それでも現状を変えたいならば自らその一歩を踏み出すしかない、とカゲトラは思うのだ。
    ――多分、そう言うのは回りが変わってくれる訳じゃねえ……動くことで自分の視界が思考が判断が変わって、選択の幅が増えるってぇ、ただそれだけのことだ……
     再び啜り泣き始めてしまったヒナギクから視線を逸らすと、傍らの小間物机に写真立てが飾ってあるのが目についた。写っているのはどこにでもありそうな普通の一家族――今より幼い感じのヒナギクと、記憶にあるより随分若く見える丸眼鏡の男、その両親らしき壮年の男女。
     しかし、カゲトラは父の方には見覚えがあった。
    軍医として平民兵たちの医療施設に勤務していた、アモウと言う男だ。従軍期間は一年にも満たないものであったが、戦線帰りでなくとも同僚との揉め事で生傷の絶えなかったカゲトラは、よく世話になったものである。
     分け隔てなく誰とでも平等に接してくれる親切な男であったが、確かその優秀さを買われて研究員として本部へ召喚されたのではなかったか。だが、間もなく愛妻と共に乗っていた蒸気四輪が事故を起こして、帰らぬ人となったように記憶している。
    「……お前、アモウさんの娘か」
    「お父様を知ってるの?」
    「ああ……いつも世話になってた」
     彼の息子であると言う呪縛は、丸眼鏡の男にとって途徹もない重圧だっただろう。アモウが何を言わずとも周囲がそう言う目で見る。勝手に期待し、そうであるべきだと糾弾する。
     男がヒナギクの病気の研究に躍起になっているのは、無論大事な妹を救いたいと言う純粋な想いからであったに違いないが、それが今も変わらぬ純度を保っているかどうかは甚だ疑問だ。
     その時不意に、からりと引き戸を開けて丸眼鏡の男が病室内に入って来た。
    「…………っ、」
    「お兄ちゃん!」
     ヒナギクの顔が一瞬ぱっと晴れたが、瞬く間に再び曇ってしまった。
     現れた男はよれよれの白衣を纏い、伸び放題の髪と髭の間からぎらついた目をこちらに向けて来る。しかし、その視界には少女の姿しか映されていないのか、傍らに座るカゲトラには目もくれずに、彼はつかつかと妹の元へ歩み寄った。
    「やったぞ、ヒナギク! ついにお前の病気を治す薬が完成したんだ!!」


    →続く