男が手にしていたのは、小さな錠剤だった。
     白い皮膜に包まれたそれは、一見すればただの風邪薬にしか見えなかっただろう。けれど、ぞくりと全身を貫いた怖気から、その中身を理解したカゲトラは立ち上がった勢いのままに、男の手から薬を――否、極小機巧をナレノハテの核となるだろうそれを叩き落とした。
     もしかしたら触れられないのではないかと懸念したが、そんな杞憂諸共小さな錠剤は宙を飛び床を転がっていずことも知れぬ方向へ消えた。
     男にしてみれば、いきなり見も知らぬ輩から大事な研究成果を無茶苦茶にされたのだ。当然激昂して胸倉を掴まれる。
    「君、何をするんだ!? あれはねぇ……あれは! 妹の病気を治すために、ボクが何か月もかけて寝ずに研究して、ようやく作り上げた薬なんだぞ!! それを……」
    「は……薬? 人間やめて身体を機巧に任せて、ナレノハテになるためのあれが、『薬』だと?」
     一歩も退くまいと眉間を寄せて睨み返し牙を剥いたカゲトラは、逆に彼の胸倉を掴み上げて問い質す。
    「テメーはそれが正しいと……ヒナギクが喜ぶことだと思ってんのか?」
    「何?」
    「テメーはその手で自分の手で、妹をヒトじゃねえものに変えて永劫苦しめるつもりか、っつってんだよ!! 他人を犠牲にして食い物にして生き長らえることが、どれほどしんどいか……どれほど辛くて重てえか、テメー解ってんのか!?」
     生きていてよいのかともがき足掻きながら、死ぬべきではないのかと這いつくばりながら、それでも全部の業と罪を背負い、その手を血に濡らして生きて行くことが、それでもヒトとして歩んで行こうとすることが、どれほどの覚悟を必要とするか、どれほど難しいことか――この短期間ナナキを傍らで見て来たカゲトラは知っている。
     それでも彼女のように生きたいと叫ぶなら、カゲトラは背中を蹴飛ばしてでも応援するだろう。力一杯出来る全てで持って支え、その志を守るために刀を手にすることを厭わないだろう。
     けれど、ヒナギクはそうではない。
     彼女は最期まで抗おうとは、思っていないのだ。
     しかし、男の方もただ言われるがままに黙ってはいない。思い切り引いた拳を至近距離から放って来る。腰の入っていない体重の乗っていない素人の殴り方は、逆に彼の方が手を痛めたのではないかと心配になるほどであったが、それなりに痛いし不意打ちにはなった。口の中は切れたし、鼻血も噴き出る。
    「うるさい! そんなことは承知の上だ!! ヒナギクがそんな生き方を望んでいないことも、正しい方法じゃないことも、大勢を犠牲にすることも、全部全部覚悟の上だ!! でもそれでも、そんなになってでもボクは、ヒナギクに生きてて貰わなきゃ困るんだ!」
    「そりゃテメーの研究を、正しいと証明して貰うためだっつってたじゃねえか!」
    「ああそうだとも! マガツヒトはナレノハテから作れる、いやそもそも彼らだって最初は誰もが人間だった……誰かが意図的に作り出している可能性だってゼロじゃないだろう!?」
    「…………寝言は寝て言え、くそったれ!!」
     ごっ、と思い切り男の鼻柱に頭突きを食らわせて、カゲトラは限界に達した苛立ちをぶちまけるように吼えた。
    「俺はテメーのそう言うとこが大っ嫌えなんだよ!! 妹を出しに使うな理由にすんな!! 大義名分や外向けの理由なんかどうでもいいんだよ! テメーは最初からヒナギクの病気を治すことは二の次だったのか!? そのくせあいつにあんな約束したのかよ、テメーしか縋る相手がいない子供に嘘吐いたんかよ!!」
     吹っ飛んで床に倒れ伏した男に馬乗りになり、再度胸倉を掴んで揺さぶる。ごほ、と一つ咳き込んでから、男はぼそりと呟いた。
    「嘘じゃ……ないさ」
    「あ?」
    「たった一人の家族だぞ……ボクより下の、まだ子供の、そんなの死なせる訳に行かないだろう!? 不治の病にさせたなんて、申し訳なくて両親に顔向け出来やしない! だからこそボクは……何としてもヒナギクを助けなきゃならなかった」
     無防備な腹を蹴り飛ばされて、今度はカゲトラが床に叩きつけられる。向こうも己の目的を達成させるために必死だ。血走った目でこちらの首に手をかけながら叫ぶ。
    「家族だからこそ、妹だからこそ、どんなになっても生きてて欲しいんじゃないか! ボクはあの時みたいに……父さんや母さんが死んだ時みたいに、大事なものを失う絶望を味わうのは二度とごめんだ!!」
    「……ぐ、っ……」
    「これはボクにとっても賭けだったさ! もしかしら実験に堪え切れず、ヒナギクは死んでしまうかもしれない……でも、ヒナギクは生き残った。だったらもう二度とくだらない病魔に侵されたりしないよう、ありとあらゆる手段を講じるのは当然だろう?」
     いつの間にか目的と手段が入れ替わってしまっていることに、男は気付いていないのか。そうして他者を屠る度に、少女はヒトから離れ本来の自分から遠ざかっていたと言うのに。
    「くっだらねえ」
     は、と嘲笑を吐き捨てると男の顔が憤怒で歪む。
    「もう一度言ってみろ」
    「何度だって言ってやらぁ、『下らねえ』!! 結局のところ、テメーが独りになりたくないがために死んでもなお、妹をあんな風に傍に縛りつけてんのかよ。反吐が出るぜくそ野郎」
     とん、と軽く顎下へ拳を当ててやると、かくんと男の身体から力が抜けた。立ち上がれないことに焦燥を覚えたらしいが、軽い脳震盪状態なのだからまともに動けるはずがない。
    「そんな下らねえことに費やしてる時間があったなら、何で妹の傍にいてやらねえ? 生きてる内に目一杯、いろんなとこ連れて行っていろんな景色を一緒に見て、いろんな美味いもの一緒に食って、共に時間を過ごしてやらねえ?」
    「お前、に……」
    「人はいずれ死ぬ。死ななきゃならねえ。だからこそ力一杯、後悔しないように生きて活きて行かなきゃならねえ。ヒナギクが決めてた覚悟から、ダセエことにテメーは逃げたんだ。お前が死んだ後、ナレノハテとして残されたあいつの気持ちを考えたか? あいつがどんな顛末を辿る羽目になるのか、想像したか?」
    「あ…………」
     ぐい、と流れる血を拭って立ち上がると、カゲトラは背後に近付いて来ていた小さな気配を振り向いた。
    「言ってやれ、ヒナギク。テメーの口からちゃんとテメーの言葉で、本当の気持ちを」


    →続く