田舎の夜は深い。
     朝も早いから宵の口には人通りがぴたりとなくなってしまうし、街灯も殆ど設けられていないため、暗くなるのも早いのだ。ひっそりと息を詰めるように人々の沈んだ村を囲う山々では、夜行性の動物たちが活動を始め、鬱蒼とした闇はより得体の知れない近付き難さを帯びる。
     況してや、今夜は折よく雨が降っていた。
     星はない。月も雲の向こうに隠れて気紛れに顔を覗かせる程度で、辺りは一際暗かった。
     己の立っているこの泥濘んだ大地は、果たしてよく知るいつもと同じものであるのか否か――夜半人目を忍んで蔵を訪れたまほろは、そんな言い知れぬ不安を覚えているかのようだった。
     傘は邪魔になるから差さない。
     雨避けの外套のフードを深く被り、緊張した顔つきをしていた。
    「…………」
    「まほろ」
     がちゃん、と鍵を開けるその手を握り、真っ直ぐにその目を見遣る。吸い込まれそうなほどの黒曜は、逸らされることなく閃光の姿を映していた。
    「後悔しそうなら、このまま戻れ。今ならまだ間に合う」
    「しないわ」
     即答だった。
     震える手で鉄格子を開けながら、今にも泣きそうな顔をしながら、それでもまほろは笑って閃光の背中に腕を回した。
    「苦しいことも辛いことも、嬉しいことも楽しいことも、全部貴方と一緒がいいの、閃光」
    「…………」
     黙ってまほろをぎゅっと抱き締めると、
    「行こう」
     持って来て貰った外套を羽織り、フードを目深に被ると彼女の手を取って、蔵を出る。
     雨足はそこまで強くはない。
     歩くのにはちょうどいいかもしれないが、果たしてこの足跡を上手いこと消してくれるものだろうか? 噎せ返るような濃い土の匂いに邪魔されて、鼻が人並みにしか利かないのも不安材料だ。近付く他者の足音も気配もいつもより感じ取りにくく、優位条件は悉く潰されてしまっている。
    ――大丈夫……焦るな……
     村を出てしまえば、何の問題もない。
     山を越えてしまえば、何の心配もない。
     それは決して越えられない壁ではないのだ。突破出来ない障害ではない。
    ――これくらいどうにか出来なくて……これから先、どうやってまほろを守れる……
     静まり返った裏門を潜り、密やかに村の出口を目指す。とは言え、唯一バスや車の通る大きな道路から出ようとするのは無謀だ。いくら夜闇に紛れてのことであっても、目立ち過ぎた。
     早鐘のように響く鼓動に、胸が締め付けられる。怖い。怖くないはずがない。知らないことは怖いものだ。そして、閃光には知らないことが多すぎる。
     この世界が本当はどんなもので出来ているのか、
     この世界が本当はどう回っているのか、
     知らない。知る術がない。閉じ込められて隔絶され、その内側だけが全てで十年以上を過ごして来た閃光は。
    ――でも、
     生きるなら死ぬならまほろの隣がいい。
     彼女の笑顔を守るためなら、自分はきっと何だって出来る。彼女のためならきっと闇に潜む化け物から人間へ変わって見せる。
     そう、決意したのだ。
     きゅっと手を握ると、きゅっと手が握り返される。
     大丈夫。
     大丈夫。
     きっと、大丈夫。
     田圃や畑だらけの村は、開けた視界の場所ばかりだ。誰か知り合いと擦れ違いはしないか、見咎められ呼び止められて修晟に知らされはしないか。
     そんなことばかり考えて俯いて歩いていれば、余計怪しまれる。挙動に不審さが出る。
     何でもない風を装って、まるで恋人同士のように寄り添って、けれど出来る限りの早足で歩く。
     幸いなことに集落を抜けるまで、誰にも会うことはなかった。こんな天気の日に、わざわざ外を出歩く物好きもいないのだろう。
     かなり長いこと歩き詰めだったせいか、まほろはしんどそうだった。草木が生い茂っていても、ちゃんと踏み固められて道として機能しているところはどうにか着いて来られたものの、獣道になり山登りの体を成すようになって来ると、格段にスピードが落ちた。
     靴擦れと潰れた肉刺のせいで、思うように歩けないのだ。
    「まほろ……立って、早く」
    「もう無理だよ……私、これ以上歩けない。後で行くから、閃光……先に行って」
     素人の――況してや普段から鍛練や基礎運動に励んでいる訳でもない一般の女の子に、夜の山越えなんて無茶なことを言っているのは百も承知だった。暗闇で視界の利かない中を踏破するのは、想定以上に神経を疲弊させ、少ない体力を確実に削り取って行く。雨に濡れた身体が冷える。
     それに、今二人は逃げているのだ。
     見つかれば確実に待っているのは、死かそれと同等の屈辱と言う最悪の結末しかない。その精神状態はただでさえへし折れそうな心を容易く挫き、実際よりも重い疲労が全身に圧し掛かる。
     いつ、どこから、追っ手が危険な野生動物が飛び出して来るか、追い詰められた思考はもうまともに働いているのかどうかすら解らない。
     それでも立ち止まる訳には行かないのだ。
     生きるために、『普通に』生きていくために。
    ――俺がもっと大人だったら……
     願ってもどうしようもない想いが突き上げる。まほろを抱えて背負って逃げられたなら、もっとちゃんと守れたならば、こんなにも自分が無力でなかったならば、
    「置いて行くくらいなら、最初から一緒に逃げようなんて言うかよ!!」
    「閃光……」
    「もうちょっとだけ頑張って、まほろ。近くに何かの小屋がある。炭の匂いがするんだ。そこまで頑張って」
    「小屋……もしかして、猟師の拠点かしら? ……解った。頑張るわ」
     目標が出来たことで宛のない道程よりは気力が生まれたのか、まほろは精一杯の笑みを浮かべて頷いた。


    →続く