「ほら、閃光も触ってみなよ」
     まほろに抱えられていた仔猫が、にゃあと啼いて小さな前足をこちらへ伸ばす。彼女の華奢な両手にすらすっぽり収まってしまうほど、小さくてか弱い存在だ。かなり躊躇したものの、やはりそのほわほわと柔らかそうな毛並みに触ってみたい誘惑には勝てず、閃光は恐る恐る手を伸ばした。
     壊さないように、傷つけないように、
     掌に下ろされた仔猫をそっと受け取る。初めて触れるまほろ以外の存在、人間以外のその体温の熱さに、思わず引っ込めかけた手をどうにか止めてこちらへ導いた。想像よりもふにゃふにゃと柔らかく、勝手に身動ぎする仔猫は、閃光が己を誤って取り落としてしまう危険など、まるで考えていないようだ。
     つぶらな丸い瞳、ぴんとした髭にピンク色の鼻、指通りのいい錆色の毛並み。まほろが拾った時はもっと砂埃に塗れて汚かったのだろうが、洗ってミルクも与えられてちゃんとすれば、そんなに悪くない。
     それでも、
    ――こんな奴でも棄てられて、ゴミみたいに扱われるのが、『外』の世界……
     こんなに誰からも愛されるようなものでさえ。ならばもっと醜いものは、もっと汚れているものは――
     こちらに何を感じ取ったのだろう?
     ぴくりと突然強張った仔猫は瞬く間に全身を総毛立たせて、しゃー! と威嚇の声を上げながら牙を向いた。閃光の手を逃れようともがき、暴れる。爪を立てられ噛みつかれ、思わずその小さな身体を取り落とすまいと焦った。
     本当ならこのくらいの高さであれば、例え放り出しても仔猫は本能的に身体を捻って、上手いこと着地しただろう。そこまで必死に抱え込む必要はない。
     けれどそんなことを知らない閃光は、このか弱い存在を守らねばならないと言う想いに駆られて、躍起に仔猫を掴んだ。
    「おい、そんなに暴れたら……」
     瞬間――ごきん、と嫌な音がしたかと思うと、仔猫からぼとぼとと赤黒い液体が滴り落ちた。血と体液と中身が入り交じったそれは、無論最早ただの肉塊以上の意味を失ってしまった仔猫だったものを、閃光が手にかけてしまった何よりの証拠だ。
     ぬめぬめと生暖かい感触が指に掌に纏わりついて、酷く不快だった。
     けれどそれより、そんなことよりも、
    「ぁ……違……っ」
     きっとまほろは悲鳴を上げるだろう。ほんの少し力を込めただけで、こうして容易く他者の命を奪える閃光を、今までの人間と同じように、悍ましい化け物を見るような目で見遣るだろう。
     穢らわしいと、
     近寄らないでと、
     泣き叫ばれるだろう。
     他の誰から何と罵倒され蔑まれ忌避され理解などされなくとも、拒絶されようと構いはしなかったが、まほろからそんな目を向けられることは、それが例え想像の中だけであっても、堪らなく――我慢ならなかった。
    「まほろ……違う、そんなつもりじゃ……」
     例え悪意があろうとなかろうと、他意があろうとなかろうと、害したことに変わりはない。傷つけ殺して、命を奪った事実は変わらない。
     ぐにゃりとボロ雑巾のようになってしまった仔猫の亡骸をどうすればよいのか、その混乱も閃光の思考をばらばらにしてぐちゃぐちゃに掻き乱して、まるで救いを求めるようにその手の残骸をまほろに差し出す。
     彼女は――
     泣くことも喚くこともしなかった。ポケットからお気に入りのはずのハンカチを取り出すと、広げて閃光の手の上に――仔猫の上に優しく被せる。
    「ごめんね……びっくりしちゃった? 私が抱っこしたままにしておけば良かったね」
     見る見る内に血を吸って、どす黒く変色して行くハンカチから視線を上げると、真剣な眼差しでこちらを見遣る。
    「駄目よ、閃光。貴方がちゃんと最期までしてあげて」
    「でも……俺、やっぱり……無理だ」
     触れたいと、そう思うことすら罪だとでも言うように。
     誰かと何かと共に生きたいと願うことすら、悪だとでも言うように。
     その温もりはその重さは、あまりにも呆気なく掌からこぼれ落ちた。やはり自分は独りで生きて行かねばならないのだと、この闇の中から出てはならないのだと、そう残酷な現実を突きつけられたようで、堪らなく逃げ出したい。
    「でも、閃光はそうしたい、って思ったんでしょう?」
    「…………」
    「忘れないで。慣れるまで……時間がかかるかもしれないけど、閃光だって出来ない訳じゃないんだよ。他の人が拒むからって、貴方まで手を伸ばすことをやめてしまったら、本当にもう前に進めなくなる。だから、その気持ち大事にして? 大丈夫、次はきっと上手く出来るよ。そのためにもこの子にごめんなさいして、お墓……作ってあげよ?」
     怖くないはずはないのだ。
     そっと仔猫に添えているまほろの手は、小さく震えている。
     次の瞬間には、自分がこれと同じようにならない保証などどこにもない。閃光が力加減を僅かに違えれば、無力な少女でしかない姉はたちまちの内に死ぬだろう。
     死を理解しているまほろには、
     痛みを理解しているまほろには、
     それはあまりにも大きな恐怖のはずだ。
     けれど、悲しいのも怖いのも涙を堪えて微笑むまほろは、とても綺麗なもののように思えた。
    「…………うん」
     蔵からこっそり初めて外へ出て、最初に感じたのは光だった。太陽が高くに昇った昼間の外は、こんなにも目映い光に溢れているのか、と思わず閃光は息を飲む。
     次いで風――さわさわと揺らぐ空気、それらが運んで来る遠くの生活音や鳥獣の鳴き声、他者が生きている――気配。濃い土や緑や花の匂い、視界いっぱいに広がる様々な色、足裏に感じる冷たい打ちっぱなしの床や畳とは違う温もりさえ覚える大地。
     きらきらと輝き、活き活きと伸びやかにその命を謳歌する外の世界は、五感全てに怒濤のような情報を流し込んで来る。それは暗く冷たい閉ざされた世界しか知らない閃光に取って、あまりにも圧倒的で暴力的ですらあった。全身が総毛立つ。細胞が訴え、血が沸き立つほどのその、衝撃。
    「…………」
     スコップで蔵のすぐ脇に穴を掘り、仔猫を埋める一連の動作すら、眩暈がするほどの感嘆を覚えた。
    ――ああ、これが……
     まほろが生きている世界なのだ。閃光には永久に与えられることのない世界なのだ。
     逃げろ。
     逃げるなら今をおいて他にはない。
     父の留守であるこの時を逃せば、もう二度とチャンスは巡って来ないだろう。
     逃げろ。
     早く、それも出来るだけ遠くへ。
    ――逃げろって……どこへ?
     別にどこへだって構わないだろう。己を縛る枷も鎖もなくなったら、どこへだって自由に行ける。やりたいことは何だってやれる。怯える必要はない。遠慮する必要などない。まほろとならきっと、どこにいたって何をしていたって楽しい。
     そこまで考えてふと、閃光は彼女が共に来てくれることを前提で逃亡を夢想していたことに気付いた。
     この世界のことなど微塵も知らない、右も左も解らない閃光に取って、水先案内人の存在は不可欠だ。それなら無論、自分が姿を消せば逃がしたと一切の責務を負わせられるまほろなら、後顧の憂いも残さずすむし一石二鳥だ。
     が、
    ――それは……駄目だ……
     閃光がまほろを傷つけずにすんでいるのは、あの檻が鉄格子が二人の間を物理的にも精神的にも隔てているからだ。傷つけずにすむ距離を保ってくれているからだ。そうでなければたちまち、仔猫の二の舞を踏むだろう。血塗れで転がるまほろの姿など見たくない。
     そしてこの世界はあまりにもきらきらと眩しくて、息が詰まりそうなほど綺麗で、醜い自分をその罪深さを汚れた獣の姿を、余すところなく暴いて晒け出してしまうから。例え怖がられなくとも、忌避され罵倒されずとも、全てを台無しにしてしまう己を、閃光自身が許せないから。
     一緒に来て、なんて言ってしまえばそれは、まほろに全てを捨てて自分と同じ暗がりへ沈んで欲しいと望むのと、同じことだ。
     そんな我儘で傲慢なことなど言えるものか。
    ――俺はこのまま闇の中で生きるしか、ない……
     再び何の抵抗もなく蔵へ戻る閃光に、まほろは何かを言いた気に何度も口を開きかけた。けれど結局、何と言葉にすればいいのか纏まらなかったのだろう。
     いつも通りに扉を閉めようとする姉へ、
    「まほろ」
    「なぁに?」
    「…………ありがとう」
    「…………うん」
     再び光に満ちた世界は閉ざされて、冷たい闇が充ちて行く。それでも初めて触れたその柔らかさを温もりを思い出しながら、きっと次の機会など二度とないことを理解しながら、閃光はそっと両の拳を握り締めた。


    * * *


    →続く