浮上したのは海ではない。
     海とも見紛うべき広さではあるが、歴とした河だ。水質が違う。中華帝国では大河は珍しくはないが、やはり海沖から河岸まで十数キロ泳ぐのは、さすがの閃光もしんどいものがあった。何度となく邪魔になる服を脱ぎ捨てようかとも思ったが、陸に上がるのにそれはそれでまずい。
     大都会からは僅かに外れているようではあったが、人目はある。頭から爪先まで土左衛門のごとくずぶ濡れなのはいかにも不自然だ。
     この辺りは一応港になっているのか、古びた小型船がいくつも停泊している。あとは休憩所か何かになっているのか、小さなプレハブ小屋が一つ。少し先には工場らしき建物が並んでいる。
    ――っつーか、廃水汚すぎて早く着替えてえ……
     張りつくシャツの気持ち悪さに堪え切れず、舌打ちをしながら懐から香炉を取り出した。落ちながらも必死に庇って抱えて来ただけあって、傷はない。
    続いて取り出したのは愛用の銃だ。
     かしゃん、と弾装を確認する。防水処理を施して貰っているフェイの制作した弾丸は湿気った気配すら感じさせなかった。弾丸さえ無事ならば、FENRIR F08はいかに濡れようが熱されようが一ミリも変化を見せない。もう片方予備で携帯しているコンバットマグナムは、きちんと手入れし直さなければ使えたものではないだろう。足がつくものでもないし、このまま捨てて行った方が無難なようだ。
     続いてくわえようとした煙草は、びしょ濡れで無惨な有り様だった。舌打ちと共に握り潰して路面に叩きつける。
    ――取り敢えずロキに合流しねえと……上手く切り抜けてるよな……
     いつもあくまでもサポートに徹しろと言い含めている彼が、無茶な真似をするとは思わなかったが、相手はウォルフだ。心配がないことはない。
     が、通信機の回線を繋げようとしたところで、車のエンジン音が近づいて来た。泥濘んだ舗装されていない道を食むタイヤの軋みは、普通の乗用車より重厚だ。バンより重心が高いと言うことは四駆か。数は五。こんな人気のないところに観光でもないだろうから、目的は閃光――いや、彼が持つ『胡蝶の夢』だろう。
     しばし香炉を矯めつ眇めつして確認した閃光は、上手く細工された二重底に発信器がつけられているのを見つけて、小さく舌打ちをこぼした。点滅して自らの位置を声高に叫ぶ極小機械を握り潰したものの、今さら手遅れだ。
     寧ろ、上陸時に銃口の群れに出迎えられなかっただけ幸運だろう。早くに気づいて然るべきだったが、アクシデントに見舞われたとは言え、見過ごしたのは自身の失態だ。
    ――問題は……
     この接近者がどちらであるかと言うことだ。李家に連なる者であるならば、手間はかかるが問題ではない。逃げるに徹することが出来る方が楽だ。
     が、もし〈神の見えざる左手〉だった場合は――
    ちきり、と愛銃の安全装置を閃光が外すとほぼ同時、背にしていた小屋の壁が吹っ飛んだ。爆発音と共に濛々と舞い上がる粉塵、牙を剥く瓦礫の飛礫、いや火薬の臭いは微塵もしない。それと同時に灰色の砂埃の向こうに僅か蒼い光が滲む。それはまごうことなき〈魔法術〉の展開の気配だ。
    「『斬り裂け、マサムネ』!!」
    「アレン・パーカー!! くそ、最悪だ!! 早いと思ったら、テメーやっぱり別動かよ!?」
     鋼の戦車も紙細工のごとく斬り捨てる自慢の白刃が、煙幕を斬り裂いて振り下ろされる。そこから放出される衝撃波はその言葉通りに周囲の材木や、動くのかどうか怪しいオンボロ船をまるで玩具のように薙ぎ払った。
     神速のそれを躱さずに銃で受けたのは、下手な真似をして傷を負わないようにするためでもあったが何より、この間合いはアレンのものだ。勢いを殺さずに受け入れて利用して、後ろに飛び距離を取る。
     瞬きの刹那で三連射。
     狙いはアレンではなく、彼を盾に目眩ましに躍りかかろうとしていたその部下たちだ。粉塵に紛れて斬り込もうとしていたらしいが、駄々漏れの殺気ではここにいますと宣言しているに等しい。血と苦鳴をこぼしながら地面に転がる男たちには目もくれず、閃光は横手でサブマシンガンを構えていた男たちの腕を撃ち抜く。
     着地点には狙いすました小屋の支柱の残骸だ。その先には〈魔法術〉で崩落した壁の一部が乗っかっている。
    「しま……っ、」
     僅かでもずれれば大怪我必至の曲芸じみた動きも、この黒い獣は生身で難なくこなしてみせる。勢いがついた体重分、梃子の原理で巨大な塊が宙を舞った。間髪置かずに響く銃声。見事にその破壊点を弾丸が貫いたお陰で分散した元壁は、凶悪なまでの欠片を雨霰と男たちの上に振り撒く。
    「大人しく香炉を渡せ、バレット」
     悲鳴を上げて己が身を庇う部下たちをよそに、アレンはただ一人無傷で地を蹴った。こじ開けようとした突破口は容易く塞がれる。再び展開した〈魔法術〉が放たれた。不可視の真空の刃はいかな閃光でも躱せない。
     掠められた手足がばっくり斬り裂けて、血を噴き上げる。致命傷になるほど深手ではないが、確実にこちらを疲労させ削り取って行く〈魔法術〉である。
     伊達に〈大戦〉の修羅場をくぐった〈機械化歩兵〉ではない。ロキが傍にいない今、閃光には〈魔法術〉に対抗する術などないのだ。
     が、その口許は揺るぎなく不敵な笑みを湛えていた。
    「そう言うおためごかしはやめようぜ。どうせ、お前のボスは香炉を渡して欲しい訳じゃねえだろう?」
    「…………話が早いな。私も無駄なことは好きではない。ならば、率直にこちらの要求を伝えよう」
     蟲の羽音のような耳障りな振動――〈魔晶石〉の起動音。
    「貴様の首を持ち帰る。死ね」
    「わお、ストレート過ぎて笑っちまう口説き文句をありがとうよ。そっくりそのまま熨斗つけて返すぜ、くそったれ」
     抜き手も見せずに放たれる斬撃を、気配だけを頼りに紙一重差で躱す。くるりと返された手首と翻る切っ先、振り抜いたはずの刃を引き戻す速度が異常に早い。
     ぼっ、と空気が破裂したような衝撃音がするのは、〈魔法術〉で意図的に加速しているからだろう。けれどアレンがその重みと勢いに振り回されないのは、鋼の体躯を誇るばかりでなくきっちり腰の座った構えをしているからだ。
     閃光の反射神経でギリギリならば、常人であれば二太刀目を見ることはあるまい。
     後ろに跳んで間合いを取らせてくれないため、閃光はアレンが突いて腕が伸び切ったのに合わせてその懐に飛び込んだ。ゼロ距離で躊躇なくその胸を撃ち抜く。残りの弾丸全てをぶっ込んで、ようやく大木のようなその頑健な巨躯が傾いだ。
     空いた顎目掛けて拳を振るう。
     万が一にも力加減を間違えて殺してしまわないように、渾身の一撃とは行かなかったが、それでも幾重にもなった分厚い鋼鉄の壁を貫いて唯一残った彼の生身である部分――どんな兵士も格闘家も鍛えようのない最重要器官――脳を、衝撃で揺さぶって一時的にその機能を停止させるくらいには、思い切り殴りつけたはずだった。
     アレンは冗談のように糸が切れた操り人形のごとくすとんと膝を落として、しばらくは指一本すら自分の意思で動かせなくなるはずだったのだ。
     が、実際にはこちらを無機質な双眸で睥睨しながら、アレンは静かに口を開いた。
    「こんなものか、怪盗バレット」


    →続く