傍らの細い路地に停めてあったのは、動いているのも不思議なほど古い廃車寸前の軽トラだ。運転席に座った閃光は慣れた手つきでギアを入れ、ぶるりとエンジンを叩き起こした。ガソリンは充分、足回りもきちんと手入れはされている。万が一の時、荷物を積んだ状態でどのくらい馬力を出してくれるかは正直心許ないが、そこはどうにかするしかない。
    「こいつ、うちのヤツフサより年寄りだな。正直、よくまだ動いてる」
     労うようにステアに触れてそう閃光が一人ごちると、少年の双眸が俄かに好奇心で輝く。
    「あんたの車、ヤツフサなのか?」
    「まあ……ジジイから貰ったの、そのまま乗ってるだけだけどな」
    「……いいなぁ……」
    「……お前もああ言う骨董機械(アンティーク)、好きなのかよ? 残念だが置いて来た」
    「べ、別に乗りたいとか言ってねえだろ」
    「そうかぃ……俺の知り合いの骨董機械馬鹿は、縋りついて俺が応と頷くまで放さなかったけどな」
     あれはもう何年前だったか。
     当たり前のように煙草をくわえた閃光は、懐からジッポーを取り出して火をつけた。紫煙が立ち上ったのを見遣って、フーシャオは目を細めた。何か問いたそうではあったが、無闇に首を突っ込むべきではないと考えたのか、上手く言葉を纏められなかったのか。あれこれ詮索されないのはありがたいが、気まずい沈黙は苦手だった。
     ゆっくりとアクセルを踏み込み、走り出す。幸い追手はないようだ。このまま気づかれることなくロキを拾って、少年の家まで着けることを祈る。
     しばらく走ったところでようやく、ぽつりと声が投げかけられた。
    「で? 何で李家の連中に追われてたんだ? あんた、あいつらが言うのが本当なら、ニホン人か何かだろう? この国で奴らに喧嘩を売るような馬鹿は、そうそういねえしな」
    「お前はその稀有な馬鹿だってか? 好奇心は猫も殺すんだぜ」
     ちらりとバックミラーに視線を向ける閃光につられて背後を見遣ると、黒塗りの車が数台物凄い勢いで追いかけて来ているのが目に入った。誰かが通報したのか、はたまたごまかし切れていなかったのか。
     がこん、とギアを切り替え、アクセルを踏み込む。急加速した車にフーシャオはもんどりうって閃光の方へ転げた。
    「飛ばすぞ、ベルトしとけよ」
    「飛ばす前に言えよ!!」
     打ちつけた額を押さえながら起き上がろうとした時、フーシャオは己が一体何とぶつかったのかを理解して双眸を大きく見開いた。
    「何で……何で、アンタがそれを持ってる!?」
     一体どこから取り出したものやら銃を突きつけるフーシャオの手は、まるで自分がそうされているかのように小さく震えていた。釘づけになった視線の先には、香炉『胡蝶の夢』。必死に己を鼓舞するように再度グリップを握り締めて、少年は閃光のこめかみにぐい、と銃口を押しつけた。
    「答えろよ!!」
    「……俺がさっき、李伯龍の飛行船から盗み出したからだ。まだニュースにゃなってないだろうけどな。ああ、もしかしたら速報で墜落事故くらいはやってるかも知れねえけど」
    「香炉の展覧会があるってのは聞いたけど……じゃあ、あの噂になってた予告状の怪盗バレットってアンタかよ」
     恐らく詳細発表は伏せていたのだろう。それでも隠したいことほど広まるものだ。
     招待客のいずれもがセレブ階級で、展覧会と言う名目にも関わらずマスコミ関係がシャットアウトされていたのは、香炉が〈魔晶石〉であるからに他ならない。
    「そう言うこった。最もこの争奪戦(レース)にゃ、暗黒街のチャイニーズマフィアだけじゃなく、世界中で街を食い潰して来た極悪強盗団も既にエントリー済みだけどな」
    「…………それ、返してくれよ」
    「あ?」
     寝耳に水なフーシャオの言葉に、思わず閃光の眉間に皺が寄る。
    「何ふざけたこと言ってやがる……『返してくれ』ってお前のじゃねえだろ。それともあれか、お前、あのリーゼントの落とし胤か?」
    「冗談じゃねえ、誰があんなクソ野郎!!」
    「じゃあ、何だってこんなもの欲しがる? 俺が言うのも何だが、これは売り払って金に変えられるような代物じゃねえ。美術品芸術品に造詣がありそうな訳でもなし、まさか気に入ったから使いたいって訳でもあるめえよ?」
     サングラス越しにじろりと投げた視線に怯んだ訳ではないのだろうが、たじろいだようにフーシャオはぐっと奥歯を噛み締めた。銃を突きつけて主導権を握っているのはこちらのはずなのに、射抜くような閃光の力強い眼差しに思わず気圧される。
    「まだ、オレのじゃないけど……取り戻してくれたのは感謝する! でも、それは『胡蝶の夢』は、家に代々伝わる香炉だ! 三年くらい前に盗まれたっきり、行方不明になってたんだよ!! あいつらが盗ったんだ! 親父とお袋を殺して!!」
    「ふーん……まぁ、それくらいのことはやるだろうな、あの連中。でもいくら殺すのが手っ取り早いっつっても、面倒なことには代わりない。帝国随一の、国家予算にすら匹敵すると言われてる財力の奴らなら、もっと利口な方法が取れると思うけどな」
     言いながら、閃光は当たり前のようにゆっくりと吸いつけた紫煙を吐き出した。
     命を握られていると言うのにあまりにも余裕綽々な態度にムッとして、フーシャオはさらに強く銃口を押しつける。
    「一回美術商だか何だかが押しかけて来て、売ってくれって散々粘られたことがあったよ。でも、二人はどんだけ金を積まれても頑として首を縦には振らなかったんだ。正当なる李家の後継者が受け継ぐものだからって……おい、さっきから何勝手に煙草吸ってんだよ!? いいとか許可してねえぞ!」
    「おい、クソガキ。銃で誰かを脅すなら、せめて安全装置は外せ。第二に、突きつける前に一発ぶち込んで本気だと理解させろ。まあ、今撃ったら事故ってお前もあの世行きだけどな。そして最後に、」
     呆気に取られてあんぐりと口を開けたまま、さらに加速するこちらを見つめるフーシャオを見遣りながら、閃光は溜息混じりの紫煙を苛立ち気味に吐き出した。
    「例えお前が先に引き金を引いたって、俺がお前の頭を吹っ飛ばす方が速い。解ったらさっさとそれを下ろせ。いい加減、鬱陶しいんだよ」
     低く押し殺した恫喝の声は、決して荒げた乱暴な調子だった訳ではない。けれど明らかに、潜った修羅場の数の違いを見せつけられるような静かな迫力に満ちており、渋々とフーシャオは銃を下ろした。
     結局引き金を引かなかったそれは、想像していたより随分と重く、緊張で余計な力が入っていたにしろ両腕を痺れさせている。
    ――くそ……こんなんで……
     銃を突きつけられても眉一つ動かさなかった目の前の男と自らを比べ、情けなさで押し潰されそうだ。
     瞬間、勢いよく閃光の掌に頭を押さえつけられる。同時に軽い破裂音――窓硝子に罅が入った。銃撃だ。
    「伏せてろ」
    「ちょ……何するつもり……」
     片手でステアを操りながら銃を取り出した閃光に、フーシャオは顔を引き攣らせた。運転しながら銃撃に対抗しようなんて無茶苦茶だ。そんな映画みたいな真似が現実で出来るはずがない。
     が、
    「あんまり弾丸ねえからな……まあ、頭だけ潰しとけば、そこまでしつこく追いかけちゃ来ねえか」
     事もなげに一人ごちて、閃光はやや窓から身を乗り出すとサイドミラー越しに一度だけ引き金を引いた。しかし外れてしまったのか先頭の車が停まる気配はない。
    「はは……っ、どこ狙ってやがる!! 下手くそめ!」
     勝ち誇ったような嘲笑を投げる襲撃者の目の前で、支柱を撃ち抜かれた屋台が諸共崩れて車体に圧しかかる。悲鳴を上げながら運転手が慌ててブレーキを踏んだが、後の祭りだ。派手な破砕音と後続が追突する耳障りな鋼の潰れる音に、フーシャオは楽しげに口笛を吹いた。
    「すっげー、やるじゃん!!」
    「誰に向かって言ってやがる」
     ふん、と鼻を鳴らして紫煙を吐き出すと、閃光は真っ直ぐに伸びるアスファルトの道なりをそのまま流れるように進んだ。


    * * *


    →続く