かけた覚えのないアラームではなく着信だ。アイコンをタップするとホログラフィーが立ち上がる。
    「はい、鴉葉です!」
    「お疲れ、魏だ。今どこにいる?」
    「すみません……ホテルです。この電話で起きました」
    「構わんよ。それより垂れ込みがあった。シャンハイシティの市場の一つで銃撃戦があった。片方は李家の黒服、もう片方は……」
    「バレットですね」
    「まあ、間違いないだろうな。その後からボロい軽トラが西に向かったのが目撃されてる」
    「西? 何があるんですか?」
    「別に何もないよ。田畑と山ばっかりの田舎さ。そのまま山登って国境越えるつもりじゃないのか」
     魏の言葉に、ミツキはそのまま携帯端末の地図アプリを立ち上げた。
     立体映像を起こして、逃走ルートと思われる道へマーカーをつける。確かにどこを通るにしても、途中高い山を行かねばならない。麓で車を乗り捨てて、徒歩で山を越えようと言うのであれば、確かに目立つ軽トラはいい囮になるだろう。
     普通なら大した装備もない中での踏破は躊躇するものかもしれないが、真冬でもない今閃光は越えられる自信があるはずだ。ましてや途中ロキと合流していれば、リスクはさらに下がるだろう。
     が、李家の追跡を振り切るためだけに、閃光が山へ向かったとは思えなかった。
    ――今のところバレットの中華帝国での拠点は報告されていない……となれば、やっぱり香炉が関係あるはずね……
     高台寺の言葉が不意に頭を過る。
    『特に焼き物や絵画で注意が必要なのは、その構図や絵柄自体にも意味が込められている可能性があるってことだ。〈魔術式〉以外にも〈魔法術〉の発動条件、暴走条件がある分、扱いには絶対細心の警戒を払わなきゃならない』
     しかしあの細かな模様にどんな意味があるかなど、ミツキに解るはずもない。けれどふと自分の首元で揺れた指輪には、と何かが閃いた。
    「魏さん、展示会の時、司会者が『焚いた煙を浴びたら不老不死になると噂の……』って言ってましたよね?」
    「『胡蝶の夢』か? ああ……言ってたな。だが、そんな眉唾物の伝承を、どれだけの人間が信じてるもんかよ。本当だったらオカルトじゃないか」
     自分と同年代である若い魏は、いくら文保局に勤めているからと言って、実際に〈魔法術〉の行使されているところを見たことがないのに違いない。〈大戦〉を〈魔法術〉を知らない世代だ。だが、信じる信じないの問題ではない。ミツキはそれが『本当』であることを知っている。
     ミツキの持つ指輪天道は三つ揃いでようやく一つの術式を発動させるしかけになっていた。言うなれば、一つでは何の役にも立たないただの装飾品だ。
     もし『胡蝶の夢』も香炉単体で〈魔術式〉が完成するものではなかったとするならば、
    ――必要なのはきっと香木……それを採りに行ったなら、いつも人混みに逃げるバレットが郊外へ向かったのも辻褄が合う……
     それを知っているにしろ知らないにしろ、恐らくウォルフたちも後を追っているはずだ。
    「支度したらすぐ追います! 手の空いてる人集めて置いてください。あと出来ればテロ制圧用の催涙ガスか催眠ガス、使えそうなら許可を」
    「物騒だな……戦争でもする気か?」
    「少なくとも〈神の見えざる左手〉もそこにいると考えるなら、生半可な装備だと死にます。バレット諸共確保するなら、そのくらい覚悟しないと」
    「ニホンじゃヤマトナデシコは絶滅したらしいな。了解、あの豚が許可出すかどうかは解らんが、かけ合ってみよう」
    「いえ、ヤン支部長ではなく子宇管理官へ進言してください。多分……あの人なら許可してくれます」
     呆れたように肩を竦めはしたものの、魏はミツキの要望を引き受けてくれた。
     通信を切り、冷えて乾いたせいで妙にごわつく服を脱ぎ捨てると、熱めのシャワーを浴びる。部屋に戻り、タオルで髪を拭きながら急いで携帯食を口に運んでいると、何かの弾みであろう。充電中の携帯端末の脇に置いていた手帳が、不意に床の上に落ちた。
     開いたページに挟められているのは、一枚の写真だ。指輪と共にミツキがどこへでも必ず持って行くそれには、まだ幼い彼女と健在だった頃の祖母月乃(つきの)が写っている。
    ――お祖母ちゃん……私がやってること、間違ってるのかな……
     拾い上げた写真に視線を落としながら、ミツキは胸中で亡き祖母に語りかけた。
     早くに両親を亡くしたミツキは彼女に育てて貰った。優しいけれどそれ以上に厳しかった祖母は、瓜二つだと言われる自分にも決して甘い顔はしなかったように思う。
     だからだろうか、年頃の多感な時期に月乃まで亡くなって頼りにすべき寄る辺を失ったミツキは、決断に迷う時己に自信を失くした時、かつて彼女の膝で答えを求めたように疑問を投げかけることを、未だにやめられない。
     けれど祖母の答えはいつだって、あの頃からただの一度も変わりはしなかった。
    「自分の中で答えが決まっている問いを、他人に投げて答え合わせをしたり、責任転嫁の伏線を張るのはやめなさい」
     それはこれ以上ない卑怯だと自覚しろと、何度も突っぱねられた言葉は寸分違わず正しく、今回だってミツキの中では答えは決まっていた。それを誰かに保証して貰いたいだけだ――己は決して間違っていない、と。
     文保局員としての選択、と言う意味でなら完全に職務規定に反するだろう。それどころか己の立場そのものを否定するようなこの行動は、処罰対象になりかねないことをミツキは充分理解している。
     けれど、
    ――閃光のやろうとしてることは、間違ってるとは思わない……
     やり方は正しいとは言えなかったが、もう今の世の中に〈魔法術〉は必要ない。繁栄し過ぎた文明は、人類社会そのものを破壊しかけた。
     一時はミツキも正しく管理使用していけば〈魔法術〉そのものは『悪』ではない、と考えていたものの、今は全ての人間にそれを強いるのは不可能だと言うことを、痛いくらい感じている。調理器具として作られた包丁で他人を傷つける者がいるように、発掘工事のために開発されたダイナマイトで破壊活動を行う者がいるように、それそのものに罪はなくとも誰かを何かを奪われる原因にならないとも限らない。
     けれど、それらとは違い、〈魔法術〉はなくとも現在の科学水準で生活に不便はないのだ。
     手に余る術は遺棄すべき、と言う閃光の主張は徒に力を求めるウォルフとは違って、本来なら文保局の目指すところそのものなのではあるまいか。
     ともかく、今のままでは彼は永遠に犯罪者だ。
    ――ちゃんと……話して解って貰わなきゃ……
     上着を羽織り、携帯端末と手帳を手に、ミツキは部屋の戸を開け外に出た。
     眠らない街はもう白み始めた空の下、動き始めている。


    * * *


    →続く