何かあってもなくても一度日暮れまでにはこの家に戻ること、とフーリャンからきつく申し渡されて、フーシャオが用意してくれた登山用具(彼は諸々山に入って調達して来ることもあるらしい)やら携帯食やらを抱えて、二人は紺碧山を目指して出発した。
     道なりは昨夜かなり無理をさせた軽トラを拝借している。
     途中ガタが来たり機嫌を損ねて停まってしまうのではないかと案じられた彼は、思いの外踏ん張って走ってくれ、おかげで予定していたより幾分早めの正午過ぎには麓に到着することが出来た。
     観光地ではないためだろう。休憩用の簡素な小屋と、適当な看板以外はない裾の広場に軽トラを止め頂上を見上げる。緑豊かな、とは言い難い剥き出しの岩肌と崖が多い渓谷が目についた。もしかしたら昔はもっと多くの樹々がその枝葉を伸ばしていたのかも知れないが、今はやや険しい印象を与える場所だ。
    「車は……これ以上難しそうですね」
    「ああ……まあ、仕方ねえさ。行くぞ」
    「何か宛てがあるんですか?」
    「俺たちが探さなきゃならないのは、ただの香木じゃあねえ。〈魔術式〉の欠けた箇所を埋める、素材となる木……〈魔晶石〉の気配を探す。用心深い〈魔女〉のことだ……自然の要素なんていつなくなるか解ったもんじゃねえ不確定なものを術式に組み込むなら、それなりの用意をしているはずだ」
    「成程……解りました、任せてください」
     有名な香木として沈香と白檀があるが、その原産国はもう少し南の東南アジア辺りになる。そのいずれでもないもの、となると格段に範囲が広まってしまうところであったが、〈魔晶石〉の気配を宿すものと言うことであればそう難しくはない。
     自然界においてその元となる第六元素マナは大いに溢れ返っているが、それがきちんと整えられた安定した状態の〈魔晶石〉であるならば探すことは容易かった。
     不自然に人の手の加えられた場所を探査すればよいのである。
     ロキはその場にしゃがみ込んで両掌を地面に触れると、双眸を閉じ〈魔法術〉を展開した。まるで魚船が音波を流してその群れを発見するように、波動を送って手応えが返って来るのをしばし待つ。
     二度、三度――やがて、すっとその蒼い瞳が僅か上を仰いだ。
    「ここから北東へ七キロ、標高は一五〇〇メートル。そこの洞窟内部に〈魔晶石〉反応がありました」
    「了解。そこだな……サンキュ」
    「途中山道外れます。気をつけて」
     それほど深い山ではなかったが、だからと言って安全な訳ではない。どこをどう通って行けば正解なのか、何となく踏み締められた道のようなものはあっても、いつそれが途切れるか見失うか解ったものではないからだ。一度外れてしまったら無事に戻れる保証はなかった。けれどそこを踏破しなければ、目指す洞窟には辿り着かない。ロキが現在地を常に確認してくれているからこそ躊躇なく歩けるのだ。
     苔やシダなどの下草を掻き分けながら進む。高い樹が多いため昼間でも暗い、と感じるほどではなかったが、眩むほど濃い土と緑の匂い――ヒトの無力さを噛み締める強大な自然が伸しかかるような気配をひしひしと感じると、苦い記憶が喚起される。
     ひんやりとした空気、距離感を失う奥行と、特徴なく続く景色は途中から出口のない迷路にすり替えられていたとしても気づきはしないだろうと、疑心暗鬼に駆られ焦燥を生む。
     ごつごつした不規則な木の根や砂利や小石で、足元は傾斜以上の負荷がかかった。フーシャオが貸してくれた登山靴がなければ、もっときつかっただろう。
     一体どのくらいそうして洞窟を探し続けたか。
    「閃光、見てください……あれ、洞窟です!」
     ロキが指差した先、確かに岩壁にぽっかりと昏い口を開けている洞穴が見えた。ホッと安堵の息を吐いてから、閃光は頭上を見上げて太陽の位置を確認する。
    ――二時半過ぎ……結構かかったな……
     腕時計も同じ時刻を示している。磁場で何かが狂ったり何だりと言う心配はなさそうだ。
    「ロキ、ここまでの記録取ってるな?」
    「はい、大丈夫です。もしここでなくても二度目は選択肢から外せます」
     日暮れまでに戻るには、この山を下りるには少なくとも到着にかかったのと同じだけの時間がかかる。中の深さがどのくらいかは解らないが、のんびり探索している暇はそれほどなさそうだ。
     フーリャンがあれほど念押ししていたのは、慣れぬ山で迷うことがどれほど恐ろしいかをよく知っているからだろう。
     いくら獣の五感があるとは言え、本能だけでどうにか打開出来る問題ではない。
    「取り敢えずぎりぎりまで潜ってみるか……深くねえことを祈ろうぜ」
    「そうですね……やはり木に絞って探索しますか?」
    「洞窟内で生育出来る植物は限られてるはずだ。それほど多くねえ……見つけ次第試す」
    「解りました」
     足を踏み入れると、数メートル先からもう奥が見えない真っ暗闇だ。時計に仕込んであるライトをつけて辺りを照らすと、閃光は意を決したように小さく吐息して歩を進めた。


    →続く