瞬間――
     パン……っ、パ……ンっ!!
     突如響いた銃声が閃光に牙を剥く。唐突に横合いから放たれた数多の弾丸が、雨霰と降り注いだのだ。着弾の衝撃に叩きのめされ、地面に倒れ込む。どろりと己の体躯の下に血溜まりが広がる気配。
     正面のウォルフの一挙手一投足に意識を向けていたせいで、他への警戒を最低レベルにまで下げていたとは言え、油断していたのは確かだろう。いくら歴戦の兵士とは言え、『普通の人間』ならば対処のしようはあると高を括っていたのは否めない。
     ウォルフの左右に展開された〈神の見えざる左手〉兵隊の布陣は把握していたが、よもや別の場所に伏兵を置いていようとは考えもしなかった。今までの彼ならそんな手段は決して取らなかったからだ。
    ――しかもこいつら、どっちかと言うと暗殺のプロだ……
    「はは……っ、完全に不意討ちだったのに、全弾急所を避けたのか。さすがだね、閃光……そうでなくっちゃ、面白くない」
     愉しそうに嗤ったウォルフが、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。早く立ち上がらねば、と頭では理解しているが、喰らった弾丸は計七発――決して浅い傷ではない。辛うじて起こした上体からはぼたた、とかなりの量の血塊が苔の生えた岩盤を穿った。
    「閃光……っ!!」
    「こっち来るな!!」
     思わず飛び出そうとするロキを、肺活量の限りに声を上げて制する。
     まだ香炉はこちらの手にあるのだ。しかもちゃんと欠けた〈魔術式〉を埋めた完全な形で。いざとなれば、それを持ってロキだけでも脱出して貰わねばならない。
     かなり歪曲して遠回しに説明したものの、丸っきりの嘘は言っていない。もしこの〈魔法術〉をウォルフが手に入れて『死ねない』身体になってしまったら、もう誰にも何にも彼を止めることは出来なくなるだろう。この世界はたった一人の――白い獣の前に屈服して跪かねばならなくなる。
     だが、幸いにもウォルフは〈魔術式〉が読めない。故にそこに込められたのがどんな効果を発揮するものであるのか、正確には理解出来ていないのだ。こちらの反応で強大なものであることは察してしまっただろうが、今はまだ閃光の言葉が真実であるか否か、見極められずにいる。
     何としてでも彼に手渡す訳には行かなかった。
    「ぐ……っ、ぅ……」
     歯を食い縛って辛うじて立ち上がり、銃を構える。眩む視界――岩影に身を潜め、横穴からこちらの様子を伺っているのは、黒尽くめの屈強な男たちだ。
    「テメー……李伯龍と手を組んだのか」
    「手を組む……? 冗談じゃない。僕はああ言う男は嫌いだよ。でも、どうしても部下たちだけは生かして使ってやってくれって、ひいひい泣きながら乞うからさ……ないよりましな盾かな、と思って」
     くい、とウォルフが顎でしゃくってみせると、背後に控えていたモシャスが引き摺って来た何かを乱暴な仕草で放り出した。
     最早本人か否か確かめようもないほどの血塗れの肉塊と化して転がったのは、服装から判断するなら李伯龍なのだろう。無論手を下したのは、ウォルフに違いない。既に息はなかった。
    「……取り込んだかよ」
    「組織を巨大化させる鉄則だろう? 頭を潰して、有象無象は兵隊へ」
     恐らく〈神の見えざる左手〉がここ最近急激に成長を遂げたのは、同じように敵対組織を吸収して来たからなのだろう。
     しかしそれでも、『血の結束』がどこよりも強固と謳われる中華帝国裏社会を、相手取ろうとする輩は多くない。仇は草の根を掻き分けてでも地の果てまで追いかける、一族郎党皆殺しにしておかねば、いつ背後から心臓に刃を突き立てられるか解ったものではない、と口々に言われるほど、執拗かつ残忍な報復を行うことで悪名が高い彼らを、ウォルフなら笑って歓迎するだろう。
     地を動く者が己以外いなくなるまで、彼は死屍累々の山を築き、血河を流して歩いて行くのだろう。
     そうした狂気を感じ取ったせいもあるのだろう。李伯龍が自分の身一つでけじめを着けようとしたことを汲んだのか否か、とかく四大財閥の一角をあっさりと叩き潰して蹂躙したウォルフは、圧倒的な力量差を突きつけながら閃光へ手を伸ばした。
    「さあ、香炉を渡してくれないか閃光……使わない耄碌ジジイが持つよりも、使えない低俗物が持つよりも、僕の糧となり血肉となった方が、それに取っても喜ばしいことじゃないか。違うかい?」
    「冗談じゃねえ……こいつは俺の獲物だ。それを横から掻っ拐おうなんざ、無粋だろ」
    「素晴らしい技術をむざむざと捨て去り葬ろうとするのは、無粋じゃないのかな?」
    「〈魔法術〉は人が扱っていい範疇を超えてる。過ぎた力は己が身を滅ぼす諸刃の剣だ」
    「だからヒトじゃない僕らが手にすべきだ。そうだろう、閃光……いい加減に受け入れなよ。僕たちは違う生き物だ。あんな下等生物と共に歩む必要はない」
    「話にならねえ。よしんば俺がテメーと組んだところで、一体何が出来る? たった二人で世界に喧嘩を売って歯向かって、それで何が得られるってんだ」
    「望むものは何でも」
     あくまでも人好きのする柔らかな笑みを浮かべて、ウォルフ。
    「下らねえ」
     吐き捨てるように笑って、閃光は懐から煙草を取り出した。一本くわえて火をつける。
    「んなもん、いらねえよ」
     瞬間、手にした煙草を閃光は何の躊躇もなく放り投げた。と、と地面に落ちた瞬間、それは凄まじい轟音と黒煙を伴って爆発する。頑強な岩肌も堪らず吹っ飛び、瓦解し、悲鳴を上げる男たちを呆気なく飲み込んだ。
    「最後に残るのがテメーか俺かなんざ、ぞっとすらぁ」
    「そうかな?」
     噴煙の幕を斬り割いて飛び出して来たウォルフは、既にその鯉口を切っている。
    「壮大な眺めだと思うけどなぁ……世界の屍踏みつけて見下ろす景色なんて、そう拝めるものじゃない、だろう!?」
     嘲笑の咆哮と共に振り抜かれる一刀、その切っ先が疾った軌道をなぞって氷壁が牙を剥く。いつもなら容易く躱せるはずのそれも、最早立っているだけで限界の身体では避けられるはずもない。けれどぼやけて霞む視界の中、それでも閃光は一点に向けてトリガーを引いた。照準は、自分がここだと思える決壊点から三ミリ左。
     ドン……ッ、
     腹の底に響く銃声が、洞窟内に轟く。間髪入れずに放たれた三撃がずれることなく一本の矢のように一直線になり、分厚い氷壁を穿った。勢いそのまま貫いて弾丸が盾をぶち割ることは想定していたのか、ウォルフはすぐさま別の〈魔法術〉を展開する。
     砕けた塊がすぐさまぬるりと溶け出して水となり、形を変えて氷柱となる。質量も形状も自在に操って様々な攻撃を繰り出して来るその手法は、明らかに力押しでこちらに競り勝とうとしていた以前とは異なっていた。
     それは――閃光に喰らった特殊弾を用心しているからと言うよりも、確実に捉えようとしているからに思えた。
    ――止められねえ……っ!!
     ぎり、と奥歯を噛み締めた閃光を貫くようにして、降り注ぐ氷柱が大地を揺らす。  
     しかしそれが血飛沫に染まらなかったのは、寸前で〈魔術式〉が陣として顕現し凍てつく凶器を分解せしめたからに他ならない。彼を庇って立ち塞がったのは無論、
    「ロキ……」
    「一人で無茶しないで下さい。貴方の隣には今、僕がいます」
    「…………助かった」
     思わずこぼれた苦笑は紛れもなく本音だった。
     濛々と立ち込める水蒸気と爆炎の名残の黒煙に視界が斑に染まっている。紛れて逃げるなら今しかあるまい。
    「もうこの場の用はすんだでしょう? 離脱します。昨日の内に、万一を考えてライラさんに連絡つけておいて正解でした」
    「行かせると思うかい?」
     閃光に肩を貸そうと手を伸ばした矢先、死角から繰り出されたウォルフの鋭い突きを、ロキは紙一重で躱す。
     続く連撃に距離を開けられ、二人は瞬く間に遠く引き剥がされた。
     閃光もFENRIR 08を構えるが、彼らの猛攻を掻い潜ってこの中を突破出来るか否かは賭けだ。〈神の見えざる左手〉と李家の黒服――向けられた銃口の数など知りたくない。煙が晴れたら一巻の終わりだ。
    ――どうする……考えろ、どうしたら奴らを欺ける!?
     これまでにない危機に、閃光の背中を冷たい汗が伝う。


    →続く