が、すぐに収まるはずのそれは、しばらく経っても辺りを漂い視界を覆ったままだった。おかしい、と気づいたのとほぼ同時、離れた場所で男たちが派手に咳込み悶えながら倒れて行く気配が五感を震わせる。
     そうだ、これは水蒸気と爆発の噴煙などでは有り得ない。閃光もいつも警備隊を鎮圧する際よく使う手だ。
    「そこまでよ!! 双方武器を置いて両手を頭の後ろに組み、その場に伏せなさい!!」
     その場に響き渡った声に、閃光はぎょっとして思わず呼吸を引きつらせた。
    「あの馬鹿……! 何やって……げほごほっ!!」
     勢い余って催涙ガスを吸い込んでしまい、激しく咳き込む。喉に掻き毟りたくなるような痛みが走り、涙がボロボロ溢れて視界が利かなくなる。何より自慢の鼻が全く封じられてしまうのが手痛かった。
     ウォルフも同様らしく、少し離れた場所で噎せたような咳が聞こえて来る。
     今までの経験から、二人の動きを止めるためには、その人知を超えた五感を支配下に置くのが一番手っ取り早いことを学んでしまったせいだろう。被害を最小限に止めるためとは言え、容赦なく手を下して来たミツキが、確かに今までの甘っちょろさをかなぐり捨て、本気でこちらを取り押さえに来たのだと言うことを、閃光は改めて思い知らされた。
     ばたばたと続く幾多の足音――取り囲むのは文保局だ。
     どこに別ルートがあったものか、きれいに頭上を押さえられて銃口を突きつけられては、さすがに強盗団もマフィアも沈黙せざるを得ない。
    「閃光、少し我慢して下さい」
     彼女はしっかりとガスマスクを装着していることを確認しながら、ロキは〈魔法術〉を展開して同じものを精製する。〈魔導人形〉たる彼に催涙ガスは通用しない。
     そしてそれは、〈機械化歩兵〉であるアレンも同じだ。
    「『斬り裂け、マサムネ』!」
     裂帛の咆哮と共に振り抜かれた居合いの一太刀が、そのまま辺りの空気を巻き上げて〈魔法術〉を展開し、催涙ガスを諸共弾き飛ばす。
     よもやそんな力業で強引に突破されるとは思っていなかったのか、よろけたミツキの身体は突き出た岩棚から悲鳴と共に転げ落ちた。それほどの高さではなかったから、擦り傷や打ち身くらいですんでいるだろうが、彼女が落下したのはウォルフたちに程近い場所だ。
    「痛たたた……」
    「やってくれるじゃないか、お嬢ちゃん……ちゃんと僕らの邪魔になってる」
     ぐい、と袖口で鼻の辺りだか口元だかをぞんざいに拭って、ウォルフはゆっくりと立ち上がった。蒼白いパルスがちりちりと迸っているのは、某かの〈魔法術〉を行使したせいなのだろうか。
    「目立たず自己主張せず首を突っ込まず、無力な人間は無力な人間なりに、怯えて陰で息を潜ませていればよかったものを」
    「ウォルフ・キングスフィールド……〈神の見えざる左手〉は私の担当じゃないけど、国際指名手配されてる貴方がむざむざと姿を現わしたのを、黙って見逃すほど私は甘くないわよ! 飛行船では遅れを取ったけど、大人しく両手を挙げて武器を捨てなさい!!」
     ただの人間である部下たちも、その殆んどがガスの影響を受けて無力化している今しか、彼らを取り押さえる隙は術はない。
     猛獣の鼻先にその身を置いているに等しい状況にも関わらず、ミツキは気丈に麻酔銃を白い獣に向かって突きつけた。開き直ってしまえば恐怖が麻痺してしまっているのか、以前は構えることも出来なかったその手は、震えることもなくしっかりと黒光りする銃把を握り締めている。
     慌てたのは閃光の方だ。
    「この馬鹿……っ!! 何してやがる、そいつら連れてさっさと逃げろ!!」
    「……実に目障りだ」
     叫び終わるよりも先に、ウォルフの意を受けたアレンが抜刀する方が早い。同時に愛刀が〈魔法術〉を展開し、いくつもの真空の刃を生む。
    「…………っ!!」
    ――間に合わねえ…………っ!!
     今さら引き金を引いたところで、見えない音速の刃が彼女を斬り裂く運命は変わらない――はずだった。
     バシィ……っ!!
     空気の塊を直接叩きつけたかのような激しい音と共に、蒼白い光が迸る。展開された〈魔法術〉の効果が弾かれ、拒絶された際に生じる反発だ。
    「え……う、そ……」
    「馬鹿な…………っ!?」
     以前にも、ミツキはそうしてアレンの放った〈魔法術〉の爪牙から逃れたことがあった。あの時はてっきり、祖母の遺品である指輪天道が奇跡的に守ってくれたものだと思っていたが、そこに含まれていた〈魔術式〉はロキの手によってきちんと一辺残さず分解されたはずだ。


    →続く