今も肌身離さず持ち歩いているとは言え、ただの指輪になってしまった天道に、先程の一撃を遮る術などないはずなのに、
    ――何で……
     まさか彼も二度まで防がれるとは、思ってもみなかったのだろう。
     混乱が思考を停止させているのか、こちらが奥の手を隠し持っている場合の用心のためにか、距離を保ったまま刀を握り直すアレンの背後から、その巨躯を事もなさげに押し退けて現れたウォルフは、躊躇なくミツキへと近づいて来る。
    「退け、何をやってる」
    「ボス……っ!」
    「〈魔法術〉が効かなかったから何だって言うんだ。こんな小娘、直接斬り捨てればいいだろう? 武器でなら『殺せる』じゃないか」
     表情こそいつも通り穏やかで、知っている限り常に薄っすらと浮かべられている柔らかな笑みを刷いているものの、ビリビリと向けられた悪意と殺意にミツキは全身が総毛立って気圧された。
     まるで金縛りにでもあったかのように、指先一本に至るまで動かせなくなる。
     息が、出来ない。
    「僕はね、閃光を解放してあげたいのさ。下らないものに雁字搦めに縛られている彼は、酷く窮屈そうに見える。だからさ……閃光にしがみつくしか能のない馬鹿女が、僕の邪魔をしないでくれないか」
     死を悟った時、今までの記憶が自分の中を駆け巡る――なんてことは嘘だ。
     実際ミツキは立ち尽くしたまま、何の気ない仕草で振るわれ迫る刃を、声も出せずに見つめていることしか出来なかった。縫い止められたように、細胞が暴力に屈服する。
    「ミツキぃい――っ!!」
     血を吐くような閃光の慟哭が鼓膜を打つ。
     初めて彼が名前を呼んでくれたのに、
    ――どうせならこんな時じゃなくて……もっとロマンチックな状況で呼んで貰いたかったな……
     そんな場違いな想いが脳裏を過ぎる。
     が、ウォルフの刃がミツキを斬り裂くことはなかった。その寸前、紙一重で力一杯突き飛ばされる。代わりにその餌食になったのは、
    「ロキさん……っ!!」
     鋼の体躯を半ばまで割られ、ショートの蒼い火花と電子パルスを散らしながらも、ロキはウォルフの得物をがっちりと捕まえていた。
    「大丈……夫です、僕は……このくらいの破損なら、動作に問題ありません」
     〈魔法術〉の蒼白い光と術式展開に伴う微風に作り物の金髪が揺れる。詠唱省略で放たれようとしたそれを、しかしウォルフに避けるつもりがあったのかどうかは定かでない。口元に刻まれた笑みは、罠にかかった憐れな獲物を屠る喜びに満ちていた。
    「君ならきっと……こうするだろうと思ってたよ、〈魔導人形〉」
    「な……」
    「正直どっちでもよかったんだけどね……閃光を壊すなら、多分君の方が有効だろう。だから、僕はあの女を狙ったんだ。動けない主人に代わって君は必ず、閃光の大事なものを守るため飛び出て来る」
     ぐぐっと力を増して押し込まれる刃。こちらの出力最大でのパワーを上回るウォルフのそれは、最早ヒトに戻れる枠を大きく踏み越えていた。
    「言っただろう、閃光……君の力じゃ守れるものなんて何一つありはしないって」
     どっ、と言う衝撃は思ったより小さかったような気がする。まるで深海にいるかのようにゆっくりと、出来の悪い映画を観ているかのように現実感を伴わないままで、ウォルフの振るった細雪の一太刀が振り抜かれ、綺麗に翻ってロキの首筋に吸い込まれた。
     硬度十の金剛石(ダイヤモンド)すらいとも容易く斬り裂く〈魔晶石〉の刃が、豆腐でも斬るようにあっさりとその鋼の首を撥ね飛ばす。血を噴き上げることもない体躯は、糸の切れたかのごとく支えを失ってその場に倒れ伏し、勢いのまま転がった頭部は閃光の目前へ落下した。
    「ロ……キ?」
     信じ難い、とでも言うように必死に這い寄った閃光は、恐々とロキの首へ手を伸ばす。
     触れてしまえば、途端にこの光景が現実になってしまうとでも思っているのか、泥で汚れたそれが作り物であるはずなのにあまりにも精巧だからか、その指先はしばし躊躇してからようやく相棒へ触れた。
    「お前……何やって、んだよ……」
     封じ込めたはずの記憶がフラッシュバックする。
     忘れようとした、けれど忘れられるはずがなかった――かつて自らの手で半身であった彼女を壊した時の光景が、クリアに脳裏に蘇った。噎せ返る臭いは血ではなくオイルと鋼のものなのに、重なる影が己の中の何かを粉々に打ち砕いたのを閃光は自覚する。
     物言わぬロキを持ち上げて、辛うじてそう問うたがその声に返る言葉はなく、事切れた者と同じように光を失った虚ろな双眸が動かせない事実を突きつけて来るだけだ。
    「俺の許可なく……勝手に前に出んじゃ、ねえよ……勝手に死んでんじゃねえよ!!」
     涙など出て来るはずもない。
     悲しみなど沸いて来るはずもない。
     今の閃光を支配しているのは、この五年以上片時も傍を離れたことのなかった半身を突如失った混乱だ。どんな時だって、安心して背中を任せられる相棒がいなくなった戸惑いだ。その制御出来ない感情が口唇から迸る。
     しかし、それを飲み込む暇をウォルフが与えてくれるはずもない。倒れたままのロキの体躯を蹴飛ばし踏みつけながら、ゆっくりと刀を構え直す。
    「さて、これで君を縛る鎖は全て解き放たれた。枷は一つ残らずなくなった。これで君は……もう僕と同じ獣の道を、修羅畜生の道を歩くしかない」
     が、向けられた切っ先が見えていないのか、閃光はウォルフの言葉に無頓着だった。俯いたままぴくりとも反応しない。
    「さあ、閃光! 誇れよ。己の血を運命をその呪わしい力を!! その手でこの世界全てをぶち壊すんだ、人間をひれ伏せさせる権利が僕たちにはある!」


    →続く