瞬間、ざわっと空気がさんざめいた。
     刹那で沸騰する物質などこの世には存在しないはずなのに、閃光の周囲がまるでその激しい赫怒に触れて蒸発し、燃え弾けて全てを焼き払わんとでもするかのように猛り、咆哮し、揺らぐ。
    「…………す」
     ゆらり立ち上がるその身体は、いつもなら巨狼の姿に変貌していてもおかしくはないほどのダメージを負っているのに、まだ辛うじて人型を保っている。が、いつもは今の弾みで外れたサングラスで隠されている血色の双眸は、今までミツキが見たことがないほどの狂気で炯々とした熱を孕んでいた。
     ずずずっ、と閃光の頭に何かが生えて来る。それはさながら悪夢のような、出来の悪いB級映画でも観ているかのような――一種のユーモアすら滲んだウォルフと同じ三角の獣の耳だった。髪と同じ漆黒のそれは怒髪天を衝くように総毛立っている。
    「閃光……」
    「テメーら全員殺してやる……地面に這い蹲って、生まれて来たことを後悔しやがれ!!」
     咆哮と共に大地を蹴った閃光の姿が、そこにいた全員の視界から突如として消失した。いや、彼は最早肉眼では追えないほどの速さで移動したに過ぎない。
     瞬きの刹那でウォルフの間合いに飛び込んだ閃光の掲げた拳は、蒼白い光を孕んだ炎を纏っており、頭上からその顔面を着実に狙って、まるで毒蛇のように素早く鋭く繰り出された。一撃を紙一重で躱しても、空気を焼いて牙を剥く炎が噛みつく。
     が、彼の変貌を察知していたらしいアレンが辛うじて割って入ったせいで、その右手は白い影を捉えることはなかった。受け止めた超重量級のパワーを誇るはずの男が、勢いを殺し切れずずりずりと押し込まれる。
    「ぐ……っ」
    「退けよガラクタ。鉄屑(スクラップ)にすんぞ」
     一体どれ程の力を今まで押し殺していたものか、振り抜いた閃光の拳は容易く大地を割った。その瞬間、まるで局地的な地震でも起こったかのように辺りが激しく揺れ、周囲の岩壁も悲鳴を上げる。吹き飛んだ破片すらも辛うじて躱したものの、アレンはよもやその衝撃が炎を噴き上げるとは思わなかったのか、視界に踊った紅蓮に怯んだように距離を取った。身体は機械と化しても、記憶に残る生物的本能は無意識に火を恐れるのだろう。
     しかし、それを閃光は許しはしなかった。
    ――迅い……っ!!
     そのまま着いた腕を起点にくるりと身体を回転させると、戦車のごとく重厚なアレンの横腹に思い切り踵を叩き込む。思わず衝撃に身体を丸めた〈機械化歩兵〉に倒れる暇を与えず、まるで〈魔法術〉のように掌中に現れた黒と銀の二丁の拳銃は、続けざまに吼えて鉛玉をありったけ喰らわせた。
     その破壊力に、堪らず装甲が屈服する。
    「ボ、ス……っ、」
     濃い硝煙の中、閃光はその血色の双眸に狂気を宿して、確かに愉しげに嗤っていた。
    「早く、お逃げく……」
     ジジッ、とパルスが弾ける露わになった鋼の内蔵部――現代機械工学でもってしても、組み上げるのに四苦八苦しそうなほど精密な〈機械化歩兵〉の身体を、閃光は無遠慮に素手で貫き割り開いて駆動部を掴み出そうとした。
     しかし、アレンとてあの地獄のような死地の中を潜り抜けて来た歴戦の戦士だ。いかに敵がこれほどまでに化け物じみた魔獣ではなかったとは言え、一矢も報いないままでいる訳にはいかない。
     ようやく捉えたと言わんばかりに閃光の腕を押さえ込むと、もう片方の手に握り締めた愛刀マサムネを膂力の限りに振り下ろす。この距離ならば銃より刀の領域だ。
    「おおおおお……っ!!」
     躱しようはない。
     いや、ハナから躱すつもりはなかったのか、閃光はアレンの一太刀を刃に喰らいつくようにして受け止めた。一瞬でもタイミングを力加減を間違えていたら、そのまま頭が割られて無惨な最期を迎えていただろう危険を、彼は敢えて冒したのだ。
     お前ごときにやられはしないと力量差を誇示し、見せつけるために。
     そのまま押し込もうとするアレンを嘲笑うように、閃光は口端を持ち上げてにい、と悪辣な表情を浮かべる。露になった犬歯は明らかに、もうヒトのそれとは異なる鋭さを帯びていた。
     まるで硝子のように呆気なく、この世で最も強い硬度を誇るはずの刃が粉々に噛み砕かれる。僅か滲んだ血をぞんざいに吐き捨てて、閃光は巨木を薙ぎ倒すかのごとく獲物の体躯を引き裂いた。その手はいつもの黒革手袋はどこへ行ったのか、黒い剛毛が覆い鉤爪がぞろりと並んだ異形へ変貌していた。
     派手に飛沫いた鮮血はアレンではなく閃光のものだ。備わった全力に、身体の方が着いて行けずに悲鳴を上げる。しかし痛みすら最早感じていないのか、それを上回る速度で傷が修復するからか、血塗れのその表情は変わらない。
     破壊と殺戮に狂喜する、ケダモノの顔だ。
    「閃光……っ!! やめて、それ以上誰かを傷つけるのはやめてぇっ!!」
     思わず叫んだものの、真紅の双眸はミツキを見ない。
     何一つ捉えてはいない。怒りと憎悪の引き金を引いたウォルフでさえも。
     その背後で、引き裂かれ破壊されたはずのアレンの半身が再び自動修復で組み上がり、砕かれたマサムネの破片を掴み、暴走する黒い獣へ突き立てる。敢えて避けることをせずに胸板を浅く斬られて、閃光は男の腕を捉えた。そのまま総重量二百キロはあろうかと言う鋼の身体を、背負い投げの要領で躊躇なく地面に叩きつける。
    「ああ、間違えた……〈機械化歩兵(テメー)〉を殺すには、心臓じゃなくて脳を潰さなきゃならねえんだったな」
     そう薄い笑みを浮かべて言いながらも、閃光は掌中に掴んだアレンの動力機関を躊躇なく握り込んだ。ゴキン、とえげつない破壊音と共に部品がバラバラと砕け散り、瞬く間にただの鉄屑と化したそれをアスファルトにこぼす。
    「は……ははっ、あははは!」
     不意に声を立てて、心底楽しそうにウォルフが笑った。
    「閃光……君は、君って奴は本当に最高だ!! 自分が狙われた時は、いくつ銃口を突きつけられようが、何度切っ先を突き立てられようが、眉一つ動かさないくせに!! そんなくたばり損ないのガラクタ一体に本気になるなんて、全くもってどうかしてる!! そんな紛い物一つ失くしたくらいでそこを越えられるなんて、心底イカれてるよ!!」
     ボ…………っ!!
     ほぼ同時に放たれた閃光の〈魔法術〉の炎とウォルフの〈魔法術〉の氷が、真正面からぶつかり合って激突する。凄まじい爆発音と共に吹き上がる水蒸気――まるで世界そのものを凍てつかせ、白銀に染めてしまおうとするかのような大氷壁を降り注ぐ数多の氷柱を、全て焼き尽くし破壊し尽くして跡形なく喰らってやると言わんばかりに、瞬く間に紅蓮の腕が薙ぎ払い蒸発させる。
     最早二匹の獣は、得物を手にしていることすらまどろっこしいとでも言うように、互いに素手で殴り蹴り〈魔法術〉を駆使して、目の前の敵を殺そうとしていた。


    →続く