けれどそれは同時に、互いにしか到達出来ない領域を理解し共有出来る喜びを分かち合うような、他者の踏み込めない何かを有していた。それは――普段己を抑えつけ、我慢し、律し、本能を殺し、雁字搦めに枷を科し続けている閃光にとって、紛れもなくあるがままに全てを晒け出して振る舞える瞬間なのではあるまいか。
     あの時閃光は、
    『こちとら、必死扱いて地べた這いずり回ってもがいて足掻いてんだ……人間になるために。人間であるために』
     オペラ座で怪人に向かって静かにそう言った。けれど、閃光にとっては一体どちらが幸せなのだろう? その嬉々とした表情は、ミツキにそう思わせてしまうほどの何かがあった。血に濡れてなお、それでも俺はこうして生きているのだと高らかに宣言するような、生々しいまでの命の咆哮が聞こえる気がした。
    ――でも、それはきっと……『閃光』の望みじゃない……
     でなければ、誰があんな苦労をして、解けるかどうかも解らない呪いのために必死になるものか。
    ――貴方が誰かのために何かのために、ヒトとして生きる道を選ぶと言うなら……私は絶対そっちに行かせたりなんかしない!!
     誰より彼に添って来たロキが、守ろうとしたものを無駄にしないためにも。
     ちらりとだけ視界の端で確認すると、アレンの動力機関は核の〈魔晶石〉を含めて粉々に砕かれたにも関わらず、ゆっくりとではあったが自動修復を行っているようだった。彼の石は、術式を分解しなければ何度物理的に壊しても意味がない。ほんの一欠片でもあれば込められた〈魔法術〉は発動する。〈機械化歩兵〉を動かし続ける術式はまだ健在だった。時間はかかるが、彼は大丈夫だろう。
     他の〈神の見えざる左手〉のメンバーたちは、凄まじい暴力と暴力の激突に一体どうしたものかと考えあぐねているようだった。それを取り囲む文保局の面々も圧倒され立ち尽くしている。
     逃げようと動けは恐らく閃光はそれを見過ごしたりはしないだろうし、だからと言って止めに入ろうにも加勢しようにも、次元が違い過ぎて下手に手を出せないのだ。万が一ウォルフに傷を負わせようものなら、邪魔をした制裁は免れないだろう。
    ――だから、私が止める……!
     ミツキの銃は麻酔銃だ。どちらでもいい。当たって、一瞬でも動きを止めることが出来れば――その後閃光をどうやって正気に戻すか考えるのは、それからでいい。
     数秒目を離していた隙に、黒い獣が優勢に傾いた。
     拳に爆発じみた〈魔法術〉でも乗せていたのか、轟音と炎を伴いながらウォルフが岩壁に叩きつけられる。がらがらと崩壊した一部の岩石が降り注ぐのも払えないほどの衝撃であったのか、頽れた白い獣は今や抵抗の腕を上げることも儘ならなかった。
    「ボス……っ!」
     叫んだ声はモシャスであったか。
     大地を蹴って跳躍した閃光は、最大級の火炎球を編み上げ纏った拳を振り翳し嘲笑する。
    「骨も遺さず燃えちまいな!!」
     考えている暇などなかった。
     ウォルフは確かに許せない犯罪者だ。嗤いながらたくさんの人々を踏み躙り、たくさんのものを傷つけ奪って殺して来ただろう。だからと言って閃光が彼を殺してしまうのは違う。絶対に間違っている。
    立ち塞がり、両腕を広げる。
    「駄目ええ……っ!!」
     叫んで目の前に身体を投げ出して来たのが誰であれ、己の中の獣が素直に止まるとは閃光自身思っていなかったし、止めるつもりも毛頭なかった。それが誰かもちゃんと認識していなかった。
     ロキを殺すことは万死に値する、と言う感情に微塵も揺らぎはない。けれど――理性を失い、目に映る全てを破壊するまで止まらない暴力の権化となった己の前に立ち塞がる誰かの影は、セピアに色褪せた記憶の奥深くに刻まれた欠片を再度ちくりと刺激した。
     普段は思い出さぬようがっちりと鍵をかけた扉の向こうに押し込めた、全ての始まりの面影が眼前の人物に重なる。
    『閃光……駄目……っ!!』
    ――まほろ……っ!!
     あの日届かなかった聞こえたはずの声が、意識を揺さぶる。


    →続く