寸手のところで軌道をずらす。勢い全てを殺すことは出来なかったものの、その拳は誰にも直撃はしなかった。
     爆風と粉塵――激震に悲鳴を上げる洞窟内でそれらが収まった晴れた視界で、顔の数センチすぐ真横に叩きつけられた閃光の拳は、強固な岩肌をどろりと熔解させるほどだった。もしそれが直撃していたら、例え何故かアレンの〈魔法術〉を二度も弾いたミツキであっても三度目の奇跡などは起こらず、無惨な最期を迎えていたことだったろう。
     無理矢理途中で発動を止めたためか、閃光の右腕はかたかたと痙攣していた。俯く姿がこぼす呼吸も全力疾走した後のようにぜえぜえと荒い。
    「ひ……かり?」
     果たして理性を取り戻すことは出来たのか。
     不安と心配と希望を込めて、名を呼ぶ。が、上げられた閃光の眼差しは先程と少しも変わらない狂気の熱を帯びたままだった。
    「ああ、くそ……いいとこで邪魔してんじゃねえよ。せっかくのこいつの怒りが恨みが萎えちまうだろうが」
     灼けそうなほどの熱がその血色の双眸の奥で煮え滾っている。一体どれほどの間燻らせ焦がれるほどに抱えていれば、これほどの激しさを宿すようになるのだろう。
     閃光であって閃光ではない獣は、馬乗りになり押さえ込んだミツキの首に空いた左手をかけると、躊躇なくその指に力を込めた。その気になればへし折ることも訳はないのだろうに、わざと弄ぶように息を詰めさせようと言うのか、きっちりと頸動脈と気道を捉えてじわじわと締め上げて来る。
    「か……はっ、」
    「そんなに死にてえなら殺してやるよ。順番なんてどうでもいいんだ」
     まるでキスでもするように間近で、こちらを覗き込み反応を確かめる閃光は愉しそうに優しさすら感じる顔で嗤った。その手をどうにか払い除けようともがいてみるも、ミツキの力ではびくともしない。食い込んだ鉤爪が皮膚を浅く切り裂いて、ぴりりとした痛みと共に血を滲ませる。
    ――させないんだから……
     辛うじて動く手で必死に辺りを探り、ミツキは手にした麻酔銃の先を閃光に突きつけた。その冷たく硬い感触と、まだ絶望の色など微塵も浮かべていない蒼い双眸に、一瞬理解しかねると言いたげに緩む手。が、面白がるようににんまりと弧を描いた口唇は、揶揄するように毒をこぼした。
    「へえ? 俺を殺すか?」
    「殺さないわよ……でも、殺されるつもりも、殺させるつもりも……ない」
    「なあ、強い奴が弱い奴を殺すことの何が悪い。弱肉強食も淘汰も自然の摂理だ。俺は死なないために、他の奴らを殺す。邪魔をする奴も、俺の大事なものを奪おうとする奴も、みんなみんな殺す」
    「人は……それ以外の方法だって選べるのよ。貴方は獣じゃない。化け物じゃない。ヒトでしょう?」
     ちきり、と安全装置を外す。けれど撃たないと侮っているのか、撃たれたとしても避ける自信があるのか、その前にこちらを屠るつもりか、閃光は微動だにしなかった。
     酸欠で意識が明滅する。
     それでもミツキは必死に言葉を紡いだ。獣の奥で壊れかけている閃光が、本当に消えてしまわないように。
    「貴方は天下の怪盗バレットでしょ!? 欲しいものはどんな厳しい警備も擦り抜けて鮮やかに盗み出す怪盗バレットでしょ!? 貴方、前に『殺して盗るのは、誰にだって出来る無粋でダセえ仕事』だって豪語したわよね? だったら自分の居場所くらい生きる理由くらい、いつもみたいに鼻で笑って世界から盗み出してみなさいよ!!」
    「…………言いてえことはそれだけか? もうちっと可愛気のある遺言残せばいいものを」
     再びぐっと左手に力が込められる。
    ――駄目だ……やっぱり、私じゃ聞いて貰えない……
     悔しさに歯噛みしながらも、ぼやけた視界に閃光を収めて泣くまいと口唇を引き結ぶ。
     瞬間――
     激しい紫電の奔流が、横殴りに閃光の身体を貫いた。組み敷いた獲物へ今まさに止めの一撃を下そうとしていた――最も無防備な瞬間を、コンマ0もずれずに狙われたのだ。いかに超感覚を誇る獣と言えど、予測もなしに躱すことなど出来はしない。
     声を立てる間もなく吹っ飛ばされて、向かいの岩壁に叩きつけられる。そのままぴくりとも動かない体躯からは、ぶすぶすと燻ったような黒煙が微かに立ち上っていた。


    →続く