崩れ落ちる洞窟の悲鳴を背後に聞きながら、アクセルをベタ踏みで駆けた。
     いつ谷底へ転落したものか、被害がこちらに及んだものかと、肝を冷や冷やさせながらの峠の崖道走行も然ることながら、〈魔法術〉でどうにか呼吸と心肺運動だけは確保したものの、全く動かずちゃんと生きているのかどうか解らない閃光の状態に、ミツキは自分の心臓が止まってしまいそうだった。
     心なしか、ずっと握っている獣のままの手は、どんどん冷たくなって行っている気がする。ぎゅっと胸の奥に氷の塊を差し込まれたような心地のまま、必死に名前を呼び続けた。
     幸い、と言っていいのかどうかは甚だ疑問であったが、〈神の見えざる左手〉の方も甚大な被害を受けたためか、こちらへ追手を寄越すだけの余力はなかったようで、余計な妨害はないまま古い身体を酷使した車は、李家の前に滑り込んだ。
     咳込むようなエンジン音を聞いて飛び出して来たのは、この家の主であろう老人と少年だけではない。
    「ライラさん!」
     予め連絡をつけておいたのか、すっかり支度を整えていた彼女はミツキを見遣ってにこりと笑みを浮かべた。
    「一応、直接会うのは今日が最初ね。こんな時だけど、初めまして」
    「あ、えっと初めまして」
    「大丈夫、心配しないで任せて。絶対助けるわ」
     そう頼もしく言ってくれた横顔は、間違いなく医者のものだった。だからだろうか、閃光が彼女を信頼して、普通の人間とは違う己の命を、ロキとは別の意味で預けているのが何故だか解ったような気がした。
    「ロキ君、そっち運んで。納屋の方。そのままサポートお願い」
    「解りました」
    「ミツキは母屋で二人の警護をお願いね。強盗団はともかく、李伯龍の方はおこぼれを狙って来るかもしれないわ」
    「はい」
     素人の自分たちに手伝えることなど何もないだろう。余計な雑菌や汚れを持ち込まないためにも、別の場所でじっと待っているより他に術はなかった。ふと、どうしたものかと言うように寄る辺なく佇む二人とは初見だったと気がついて、ミツキはぺこりとお辞儀をすると、懐から身分証を取り出して提示した。
    「えっと、文保局特別専任捜査官の鴉葉ミツキと申します。夜分にお騒がせして申し訳ございません。緊急事態のためお家の一部をお借りしますが、私が警備しますので。お二方はどうか、安心してお休みされて下さい」
     しかし、何故か二人は驚いたようにじっとミツキの顔を凝視している。
     特別珍しくも目を惹く容貌でもなかろうに、と言う疑問が表情に滲んでいたのか、小首を傾げたミツキに老人の方が慌てて我に返ったように笑顔を取り繕う。
    「これはこれは……遅い時間までご苦労さまです。狭いところで何じゃが、生きて戻っただけでも運がよかったですの」
    「じっちゃん、この人……」
    「…………?」
    「……とにかく、お嬢さんも一度湯に浸かった方がよいのではないかな? その泥塗れの服では彼の手当てが終わっても……」
     指摘されて初めて、自分の全身がどんな惨状であるかを認識して、ミツキは思わず頬を赤らめた。車に積んだ荷物の中に着替えはあるから、取り敢えず身綺麗にした方がよいだろう。
    「すみません……じゃあ、お言葉に甘えてお風呂、お借りしてもいいですか?」
    「どうぞ、その右奥の扉です。先程沸かし直しておるから、まだ温かいはずじゃよ」
     ぺこりとお辞儀して部屋を後にする小さな背中を見送って、フーシャオはちらりと背後の祖父を見遣る。
    「じっちゃん……あのネーちゃん、ニホン人だろ? 何で初代様と同じ顔してんだ?」
    「……だからあの時、彼らもとんでもなく驚いとったんじゃろう……お前と同じ疑問を、写真を見てすぐに覚えたんじゃろうから」
     それでも二人は何某かの腑に落ちる答えを見つけたようではあった。もしかするとそれは、開けてはならない禁断の扉の鍵であったのかも知れなかったが。


    * * *


    →続く