四、五時間ほどたった頃だろうか。
     ぐったりと疲れた様子で、ライラが母屋の方に戻って来た。いくら意識を失っているとは言え、ロキのサポートがあったとは言え、成人男性相手の手術をたった一人で執刀したのだ。ましてや閃光の身体は、何度も看ているはずの彼女でさえ、いつ何時予想外のアクシデントが起こるか解ったものではない。
     その緊張感は、通常とは比べ物にならないことだろう。
     いかに自己治癒力が爆発的に高くとも、今回閃光が受けたダメージは計り知れない。ロキから全力で打たれた〈魔法術〉やウォルフとの戦闘で負った傷だけではなく、何より今まで見せたことがない半獣化と言う状態が、彼の心身にどれだけの負荷をかけたのか――いろいろと問いたいことはあったものの、己の中を駆け巡る想いが上手いこと言葉になってはくれない。
    「あの、ライラさん……お疲れさまでした! 手術ご苦労さまです、それで、あの……」
    「…………大丈夫よ、閃光なら。取り敢えず心配ないわ。まだ意識戻ってないけど、せっかくだから傍にいてあげて」
    「いいんですか?」
    「ええ。何かあったら呼んでちょうだい。さすがに疲れたわ」
     欠伸を噛み殺しながら、先んじて水を向けてくれたライラにぺこりと頭を下げて、ミツキは踵を返す。部屋を飛び出して納屋へ向かうその背中を見つめて、苦笑するように吐息をこぼしたライラは、少し前に戻っていたロキの向かいに腰を下ろして、椅子の背凭れにかけていた上着のポケットから煙草を取り出した。一本をくわえて火をつけると、一つ吸いつけて細く紫煙を吐き出す。
    「彼女……女の子としては甲斐甲斐しくて、一生懸命で微笑ましいし応援してあげたいけど、文保局員としては失格ね」
    「…………貴女にしては珍しく手厳しいですね、ライラさん」
     困ったように笑いながら、ロキはヤカンを火にかける。
    「あら、私だって嫉妬くらいするわ。嫌いな訳じゃないのよ? でも、あの子を見てると現実主義で可愛気のない自分を思い出してしんどくなる。閃光が見向きもしてくれなくても、私の気持ちは嘘じゃないもの。本当……私、何であんな酷い男にいつも手を貸してるのかしら」
    「…………ええ」
    「それにしても……」
     伏せていた鮮やかな緑色の眼差しが、真っ直ぐにロキを射抜く。
    「……随分と無茶をしたわね」
     そう呆れたように溜息をついたライラの声が、幾分批難するような色を帯びているように感じたのは、己に罪悪感と後ろめたさがあったからだろうとロキは思う。
    「すみません、ライラさん……いつも本当に感謝してます。閃光を助けてくださって」
    「全く……自分の身体を命を盾にしないといけないような生き方、何度やめなさいって言ったら解るのかしらね」
    「…………面目ないです」
     毎度突然世界中あちこちに呼びつけられる彼女からしてみれば、一体いつ電話が鳴るのかと思えば予定も立てられないだろうし、自分が間に合わなかった時のことを考えると、ぞっとしない気分になることだろう。ましてや自身が治療を行っている訳ではないにしても、長期にイギリス連合王国を離れるのは実妹のことが気がかりに違いない。
    「貴方は……閃光の命令なら、躊躇なく彼を殺せるのね」
     ぽつりと呟いた言葉は、声に出すつもりはなかったのだろう。思わず自分のこぼした一言にしまった、とばつが悪そうな表情をはっと浮かべるライラに、ロキは気にしないでください、と首を横に振った。
    「そりゃあ、勿論……殺すつもりで最大出力放ちましたから」
     そう事もなげにいつもと同じ穏やかな口調で答えるロキに、思わず呆れと言うよりは反発に近いものを覚えて、ライラは視線を跳ね上げた。が、その先に捉えた〈魔導人形〉の表情に、投げつけかけた言葉を飲み込む。
     いつもと同じように柔らかく浮かべられた穏やかな笑みには、悲哀や悔恨、もどかしさややるせなさや安堵と言った、多種多様な感情の色が滲んでいたからだ。
     元々はかつて物資輸送や救護活動を目的として開発されたらしい〈魔導人形〉は、それなりに愛想と言うものが求められたため一通り、口角を上げ歯を見せて『笑みの形』を作ることは出来る。しかし、やはりそれはあくまでも『笑みの形』をしているだけで、そこに彼ら自身の感情が乗ることはない。
     ましてや、ロキは戦闘特化型として後期に製作されたモデルだと、以前本人の口から聞いたことがある。感情など覚えるはずもない、思考などするはずもない、ただただ目の前の敵を一匹残らず屠り殲滅することだけを目的として作られた彼が、普段はそんなことなど微塵も思い出さぬほど、人間じみた言動を取るのは、一体誰のためであるのか、誰の影響であるのか。
     かちゃかちゃと慣れた手つきでお茶の準備をしながら、ロキは困ったように眉をハの字にした。沸騰したお湯がポットに注がれると、途端に開いた茶葉の芳しい匂いが湯気と共に立ち上る。
    「僕を拾った時にですね……閃光はたった一つだけ命令を出しました。『万が一、俺が自分で自分をどうにも出来なくなったら、必ずお前が俺を全力で殺してでも止めろ』って……あれからもう随分経ちますが、そんなことを言われたのは後にも先にもそれだけです」
    「……馬鹿な男」
    「ええ……本当に」
    「貴方もよ」
    「……すみません」
     びしりと指を差されては、苦笑を浮かべるより他ない。
    「いくらそんな約束したからって……まあ、それだけじゃないんでしょうけど」
     差し出されたカップを礼を言って受け取りながら、ライラは釈然としない想いを乗せてふーっと吐息でお茶を冷ます。赤褐色の表面が僅かに揺れるのを見つめながら、
    「それでも貴方は閃光の意思を尊重するの?」
    「閃光は……大事な人を失うくらいなら、自分の命を投げ出すことを、何とも思わないんですよ。勿論それで、残された人がどんなにか悲しむことも解ってるんです」
    「だったら……」
    「だからこそいつも最善を尽くしてる……それでもあの場で僕が止めなきゃ、閃光はまた自分の手で、大事な人を殺すところでした」
     ロキのその認識を閃光は渋面で否定するかもしれないが、彼をいつも目で追っているからこそ、ライラにはその感情のほんの些細な機微が手に取るように解る。
     綺麗なピンクベージュに塗られた爪で角砂糖を摘まみ上げると、カップの中へ落としてスプーンで緩く掻き混ぜる。いつもライラが砂糖を入れないことを知っているのに添えてくれたのは、疲労しているのを慮ってだろう。
     こんな時にまでこちらに気を使ってくれるとは、ロキは本当に小まめな男だ。
    「……本当、貴方が健気過ぎて、オネーサン涙が出ちゃいそうだわ」
    「僕の方が年上だと思いますけど」
    「だとしても、よ。閃光にはそんなつもりはないのかもしれないけど……」
    「いえ」
     静かなままの扉を見遣って、ロキは微かにその蒼い双眸を細めてみせる。
    「最初から最後まで、僕はあの人の代わりです。そうありたいと……何の見返りもなく、僕を必要としてくれた閃光のために、最後の最後まで彼に殉じて全てを捧げると、まほろさんが出来なかったことを僕が務めたいと、僕自身の意思で願いましたから」


    * * *


    →続く