そっと納屋の古びた扉を押し開けると、錆びた蝶番がぎい、と歯の浮くような軋んだ音を立てた。閃光が目を覚ましてしまうのではないかと、冷たい手で背中を撫でられたようにひやりとしたが、そんなことで気がつくほど易い状態ではないだろう。
     足元に置かれた最小限に絞られたランタンが、そう広くはない空間を照らしている。普段頻繁に使われる訳ではないのだろう。所狭しと置かれた農具や、何だかよく解らない道具が脇に寄せられた内部の乾いた空気は、どことなく埃っぽい。
     半ば手探り状態で歩を進めると、あれこれ集めて作られた、その場凌ぎの簡易ベッドには包帯まみれの閃光が横たわっている。
     それを確認してようやくほ、と安堵の溜息がこぼれた。
    ――よかった……
     それにしてもこんな時にまでサングラスも黒革の手袋も外さないのは(恐らくライラが施術後にはめ直したのだろう)、何だかとても苦しくて窮屈そうだった。
    ――勝手に取ったら嫌がるかな……?
     僅かに躊躇したものの、ミツキはそっと手を伸ばして閃光の双眸を覆うサングラスを外し、手袋を取った。ぴくん、と微かに指先が跳ねたが、その目が開く気配はない。
     応えが返らないのを承知しているから、ミツキはそのまま閃光の手を取ってきゅっ、と握り締めた。節張った大きな――男の手だ。存外繊細そうな形の指先が冷たい気がするのは、まだ万全ではないからだろうか。
    ――この手が……
     今は普通の人の手の形をしているが、紛れもなく多くのものを奪い、壊し、傷つけて来た獣の手であると言うことを、ミツキはその身を持って思い知らされた。
     今もまだ、こちらの首をへし折らんばかりに締め上げて来た指の感触を、皮膚を浅く切り裂いた鉤爪の冷たさを、まざまざと思い出すことが出来る。
     それでも、
    ――何かを守ろうとしてる手……なんだよね?
     傷のせいで熱が出ているのか、魘されるようにはっ、はっ、と浅く早い呼吸がどことなく苦しそうだ。
     少し躊躇したものの、ミツキは傍らに置かれていた水の張られたタライに小さめのタオルを浸して濡らすと、ぎゅっと搾って閃光の額にそれを宛がった。次第につかえたようだったリズムがゆったりとしたものになり、少しは楽になったのか苦痛を堪えるように寄っていた眉間が紐解かれる。
    「…………」
     ミツキは閃光のいつもサングラス越しの警戒心に満ちて総毛立ったような険しい顔か、挑発的な眼差ししか知らなかったが、こうして無防備に晒される表情は年相応で、きっとこれが彼本来の顔なのだろうと思えた。
     その時、不意にちゃり、と何かが小さな音を立てて、身動ぎした閃光の首元からこぼれ落ちた。よもや他にも何か獲物を隠し持っていたのかと思いきや、覗き込んだ視線の先にあったのは何の変哲もない小さなロケットである。
     随分古いもののようで、この不遜な男が後生大事に偲ばせておくにはこれ以上ないほど不似合いだ、とは思ったが、ミツキの手は引き寄せられるようにその小さなペンダントトップへ伸びて行く。
    ――駄目よ、いくら何でも勝手に盗み見るなんて……閃光にだって一応プライバシーくらいある訳で……
     そう思うのに、震える指先は止まってくれない。どうせならいっそ、二度と開かないくらい錆びついて壊れていてくれたらいいのに、と言うその願いも虚しく、ロケットの蓋はいとも簡単に開いた。中に納められていたのは色褪せた写真である。そこに写る人物の顔を見て、ミツキは思わず鋭く息を飲んだ。
     こぼれかけた声を、慌てて掌で口を覆ってから、
    ――嘘、これ……ロキさん……? いや、違う……女の人……? 髪の毛長いし、黒いし……何か若干ほっそりしてる気が……いや、ちょっと待って……私、この人知ってる……最近どこかで見た? どこで?
     は、と思い出したのは、文保局の資料室で閃光の身元を調べた時のことだ。全員死亡していた彼の家族の写真データの中に、この女性と同じ人物が写っていた。恐らく姉であろう彼女は、閃光とあまり似ているとは言い難い。
     それにしても、こう言う場合普通なら家族全員が一緒に写ったものを持っているものではないのだろうか? 何某かの理由でこの一枚しか残っていなかったとしても、彼らしからぬこの特別扱いは、何故などと理由を問うまでもない。誰にも知られないようにこうしてひっそり持っているのは、それだけ閃光にとって彼女が大切な存在だからだ。そこに姉弟以上の何かを感じてしまうほど、その心を大きく占めているのは間違いあるまい。
     やはり、見るべきではなかったと激しい後悔に襲われながら、ミツキは再度蓋を閉めた。
    ――そりゃ……私なんかが入る隙間なんかない、か……って、こんな時に何考えて……
     悪い方へ流れて行きそうになる思考を、慌てて頭を振って止める。
     ふと、閃光が身体を丸めて小さく震えていることに気がついた。術後の拒絶反応による痙攣か、とぎょっとしたものの顔色が紙のように白い。触れた頬はどれだけ体温が低いのだ、と驚くほどに冷たかった。
    ――もしかして、血が足りてない……? 体温下がって寒いんだ……熱じゃなくて、寒気がしてる?
     よしんば、こんな事態のために自分の血を予めライラに託していたとしても、その量には限度があるだろう。
     額のタオルは外したものの、何か着せて温め体温を維持するしかあるまい。
     が、あまり普段客人が来ることはないであろうこの家には、恐らくそれほどたくさんの毛布や予備の布団はあるまい。今この即席の寝床だって、あちこちからかき集めて作ってくれているのだ。
    ――シーツ一枚じゃ……他に何か……
     納屋の片隅だ。あるのは農具や飼料ばかりで、上からかけてやれそうなものはなかった。取り敢えず、羽織っていた上着を被せるも、暖かい素材でもなし、こんな程度では気休めにもなるまい。
    「…………」
     しばし躊躇したものの、ぐっと口唇を引き結んで覚悟を決めると、ミツキはブラウスシャツのボタンをぷちぷちと外した。スカートも脱いで下着だけの姿になると、その全部をシーツの上から被せる。顔から火が出そうなほどの羞恥を感じながらも、そのまま閃光を抱き締めるようにして中に潜り込んだ。包帯越しに背中を、腕を、温めるように擦る。
    ――ごめんね……
     意識があったなら払い除けられるだろう手を、ぎゅっと握りはあ、と息を吐いて温めた。ぴくり、と小さく反応が返るも、それはただの震えなのかもしれない。
     けれど、
    ――お願い、死なないで……
     必死に祈りながら願いながら、ミツキは閃光に己の体温を与え続ける。鼻先を擽るいつもの煙草の匂い。「何やってんだ」と不機嫌そうな声音が降って来るのを信じながら、
    ――死んじゃ駄目だよ、閃光……


    * * *


    →続く