――何やってんだかな……
     外へ出て生温い風に当たりながら、自己嫌悪の溜息を吐く。
     誰一人例外なく近づけまいと決めたのは自分のはずなのに、不用意に踏み込んで来るミツキの熱がいつの間にか嫌ではなくなっていた。貴方の作った壁など知らないとばかりに、頑なに他人を拒絶する柔らかな部分に触れられるのが、気持ち悪くはなかった。
     懐を探り、煙草をくわえて火をつける。
     立ち上る紫煙が乱れた訳でも、草木がざわついた訳でもなかったが、ふと傍らに気配を感じた。上げた視線の先――いるはずのない人の影を捉えて、閃光の双眸が柔く細められる。そこにはいつもの警戒心に満ち、牙を剥いて総毛立つ獣のような鋭さはない。
    「やっぱり……まほろだったんだな。あの瞬間、俺を止めてくれたのは」
     誰もいない空間。
     けれど閃光の超感覚は明瞭にその姿を感じていた。淡い光を纏った背中まである長い黒髪、長い睫毛の柔らかな双眸、記憶にあるのと寸分違わない――今ではすっかり背丈も年齢も追い越してしまった、誰よりも大事な想い人を。
     何もかもが真っ赤に染まった意識の中で、自らを抑えつけ我が物顔で振る舞い、荒れ狂って暴挙に出る獣を、閃光は御せなかった。怒りと憎しみで容易く引きちぎれた理性は、あの時と同じにこの世の全てを破壊せんと目覚めた歓喜の咆哮を上げた。
     ウォルフを殺そうと、した。
     それを止めようと立ち塞がったのがミツキであることを、微かに残った意識の底で閃光は理解していたのだ。けれど止まらなかった。止められなかった。
     諸共消し飛ばし、焼き払えと叫ぶ本能が寸手で矛先を変えられたのは、彼女を自分と同じ目に遭わすまいと、まほろが庇ってくれたからに他ならない。
    「ありがとう……おかげで、あいつを殺さずにすんだ」
     まほろは黙って優しく笑んだまま、こちらへおもむろに歩み寄って来る。軽やかそうな歩き方はそのままだが、踏み締める足音はない。そっと伸ばされた細い手が随分上にある閃光の頭に触れ、髪を鋤くように撫でる。懐かしい気配に閃光は静かに目を閉じた。
    「俺ぁ何も変わらねえ……あの時と同じ駄目な腰抜けのままだ」
     華奢な指先が宥めるように頬に触れる。
     互いの肌の重なった瞬間堪らずに、幾分小さくなった柔らかな温もりをかき抱いた。鼻腔いっぱいに懐かしい彼女の匂いに満たされて、胸の奥の深い部分がざわつく。
     音もなく落ちて、そのまま地面を転がる煙草。
     けれど、請うように求めた口唇はそっと指で阻まれた。咎めるように、まほろの双眸が緩く弧を描く。
    『駄目よ、閃光』
    「…………」
    『駄目』
    「…………何で、」
     昔からそうだ。何でも見透かすこの姉に、閃光が隠し事の出来た試しなどただの一度もない。
     けれどそれならいっそ、責めて罵倒して恨み言の一つでもぶつけてくれた方がマシだった。貴方のせいで私は死んだのに薄情な男だと、自分を忘れて他の女に靡くのかと、泣いて頬を張られた方が、罪悪感も後ろめたさも覚えずにすんだのに。
    『馬鹿ね』
     幼い頃と変わらずに閃光の両頬を包みながら、まほろは屈託なく笑う。
    『私は嬉しいわ……閃光に大事にしたい人が出来たってことは、貴方が生きて、独りじゃない証拠でしょう?』
    「まほろ、俺は……」
    『いいの。私は狡いから、忘れろなんて言わないわ。ずっといつまでも貴方の心の片隅に、記憶の深くに、図々しく居座り続けてやるの。そのくらいは許してくれるでしょう?』
     月の光が透けるほど、徐々にまほろはその形を儚くして行く。愛おしむように親指の腹が何度も閃光をなぞり、その想いを熱を伝えて来る。
    『でももういいんだよ、閃光……貴方の信じる道を歩いて、貴方の思うように生きていいの。閃光は閃光のままでいいんだよ』
    「…………まほろ、」
    『今度はなくさないように、ちゃんと掴んでなきゃ駄目よ?』
    「……ああ」
     辛うじて笑みを浮かべて頷くと、閃光はまほろの両手を取り、そっとキスを落とした。
     きっとこれから先、他にどんなに大切な存在が出来たとしても、彼女だけは自分の中で特別な存在で在り続けるのだろう。それは急くような痛みや焦がれる衝動や、甘くも苦くもある切なさを伴うようなものとは違う、もっと温かでじわりとしたものに変わっていることを、閃光は認めざるを得なかった。
    『大好きよ、閃光……私のたった一人の大切な……』
     ふわり、と風に浚われるように浮かび上がったまほろが、そっと閃光の額に口づける。思わず無意識に閉じていた瞼を再び開いた時には、まるでその邂逅は夢か幻であったかのように辺りには何の気配もない。
    「…………」
     空を見上げ小さく息を吐くと、閃光は再び傍らの木箱に腰を下ろして新しい煙草をくわえ火をつけた。それを全て消費して灰にしてしまう前に、かさりと背後で下草を踏み締める音が鼓膜を打つ。警戒すべきこの状況で抜かなかったのは、誰だか解っていたからだ。
    「閃光」
     数歩分の距離を開けて立ち止まったミツキに、閃光は振り向かない。まともに彼女の顔を見られる気がしなかった。


    →続く