まるで野性動物の縄張りが不文律であるのと同じように、他人の領域へ足を踏み入れるとろくなことにはならない、と本能が告げている。
     じゃり、と踵を返しかけたものの、誠十郎にとっては外へ出る時に通る勝手知ったる道程だ。
    「大丈夫じゃよ、こっちに行けば屋敷が……」
     と、誠十郎が指差した方角、道路のど真ん中に何かが置かれている。それを視認した瞬間、閃光は吐き気を催すほどの凄まじい腐臭を嗅ぎ取って、すん、と鼻を鳴らした。
     つまり、あそこに倒れ伏している何かは、死体だと言うことだ。何度も何度も嗅いで、忘れたくとも記憶してしまった、死臭。
     けれど、閃光の足はあの時と同じように、『そうではない事実』を確かめようと、引き寄せられるようにそちらへ向かう。誠十郎も止めるべきか否か、一瞬とは言え逡巡したのだろう。
     その手を掴もうとした時には、閃光はもう届かない位置にいた。
     そうして、二人ともはっきりとそれがーー無様に捨て置かれた死体が、探していた茶虎のものであることを理解した。
     血と泥に塗れ、まるでボロ雑巾のようにズタズタにされ、可愛い毛並みがよく解らないくらいだ。この道は車通りも多い。あまり人馴れはしていなかったせいで、ふらふらと飛び出してしまったものだろうか?
     鴉や他の動物にも漁られたものか、お腹の辺りは綿を抜かれた縫いぐるみのようになってしまっていた。
    「何て……惨いことを……埋めてやらんと」
     だがしかし、ぽつりと溢した誠十郎は気づいているだろうか? これはただ単に車で跳ねられた訳ではない。無茶苦茶に弄ばれて傷つけられ、無闇に恐怖を煽って追いかけ回した挙げ句、止めのように曳き殺したのだ。
     色濃く周囲に残された恐怖の臭いが、断末魔の悲鳴のように閃光の神経に突き刺さる。
    ーー…………やる……
     どす黒い感情が腹の底から沸き上がるのを、閃光は止められなかった。
     怒り、だろうか。
     哀しみ、だろうか。
     憐れみだったかもしれない。
     いずれにせよ、普段押さえつけているものがたった一瞬にして、黒く塗り潰されてしまったことを自覚した。
    ーー犯人をこいつと同じ目に遭わせてやる……
     ぎゅっと拳を握り、奥歯で込み上げたどうしようもない衝動を苦く噛み締める。
     その、刹那だった。
     しばらく気配を見せなかったはずの獣が、背後からするりと腕を伸ばして閃光に絡みついた。舌なめずりをして生臭い息を吐きながら、嗤う。
    『そうだ……ぎったぎたのぐっちょぐちょにしてやれ。あの日みたいに、あいつらにしたみたいに、気に食わないものは、全部壊せよ。お前には、俺には、そうするだけの力がある』
     ぞわっ、と全身が怖気で総毛立ったがもう遅い。一瞬にして意識が引きずり込まれ、閃光を押し退けるように獣が表に出る。やめろ、と思った時には既に、身体の自由が利かなくなっていた。
    『さあ、みんな壊しに行こうぜ』
     違う。
     違うのだ。
     そんなことを望んでいる訳ではない。
    ーーやめろ……
     脳裏に蘇る地獄絵図。濃い血の匂い。噎せ返るほどの赤く紅く朱く赫い景色の中で、これ以上はない絶望と共に覚えたものは、一体何であったのか。
    「閃光……? どうした、大丈夫か? あんまり見るんじゃ……」
     戦士として不穏な気配を察知したのか、それともただ単に家族としての心配故にか、仔猫を見つめたまま佇む閃光の様子が、常とは違うことに気づいたのだろう。誠十郎がそっとまだ線の細さの残る肩に手をかけ、その顔を覗き込む。
     瞬間ーー
     ごおおぁっ! と音を立てて周囲の空気を焼き払うように、凄まじい勢いで紅蓮の炎が牙を剥いた。跳ね上がった視線に宿る邪悪さに退く間など与えず、まるでそれ自体が意思を持つかのように、明確な形を取るではないが、誠十郎を近づけさせまい、と身をくねらせて威嚇する。
    「閃光……っ!」
    「あっち行けジジイ!!」
     変わりたてのような少年特有の声が、全身全霊で敵意と警戒心と焦燥を込めて拒絶し吠える。閃光が初めて誠十郎に投げかけた言葉は、とんだ罵声であった。
    「燃やされてえのか、消し炭にすんぞ!!」


    →続く