「六月二十日はペパーミントの日」
    「そう言うカレンダー的な話をしておるんじゃあないよ」
     すっかり声変わりしてしまったよく通る低音が、いつもの訓練後で疲れているようには見えなかったが、面白くもなさそうに紡ぐ無粋な答えに、誠十郎は苦笑をこぼす。
    「今日はお前さんがここに来て、三年目の日じゃ」
    「…………いちいちそんなこと覚えてねえよ。ナントカ記念日が好きな女子かよ」
    「そう言う発言はよくないな。男だって老人だって、何かを祝うことはある。細かいことを覚えておくのはモテる秘訣じゃよ」
    「うるせえな、モテたいと思ったことなんかねえわ」
    「それでな、閃光」
     お気に入りの煙草に火をつけ、誠十郎はゆっくりと吸いつける。細くゆるゆると吐き出された紫煙が、風にたなびき浚われて散って行くのを眺めていると、
    「お前さんがここに根づいて、もう出て行かないだろうと確信したら、言おうと思っていた」
    「……何だよ」
    「お前さん、本当にわしの息子にならんか?」
     思いも寄らない提案に、閃光の紅い双眸が珍しく真ん丸に見開かれる。咄嗟に息を詰めたまま、微動だに出来なかった。
     一体、彼は何を言っているのだ? どういうつもりでこんな得体の知れないものを招き入れようとしているのだ。全て正直に一から十まで話していないとは言え、閃光がまともに生きて来た訳ではないことは、誠十郎とて百も承知のはずだ。
     確かにこの数年間、彼には随分とよくして貰った。助けて手を貸して貰った。実父よりも余程近しい存在だ。寧ろ、彼が父であったならどんなによかっただろうとすら思ったこともある。
    ーーだからって……だからって、それは……
     誠十郎は表向きとは言え、実業家として慈善家として界隈では有名だ。表立って顔出しをすることは殆んどないが、それ故にこんな真っ黒な経歴の人間を傍に置いては今まで築いてきた信頼が瓦解してしまうではないか。
     が、馬鹿じゃないのか何考えてるんだ、と言う台詞は、彼の顔を見れば吐けるはずもなかった。
     元よりそんなことは、誰より誠十郎が考え解っていることなのだ。
    「突然でビックリしたかの? まあ、書類手続き上の話じゃ。わしはもう、とっくの昔にお前さんを本当の息子だと思っとるよ」
    「…………」
    「これから生きて行くのに、仮初めでも紛い物でも戸籍は必要じゃろう? そう悪い話じゃないと思う。すぐに返事をしろとは言わんよ、ゆっくり考えて……」
     瞬間ーー
     ごふ、と誠十郎の口から血塊が溢れ出る。それが気管に詰まったものか、上手く呼吸が出来ないようで、嗚咽のように全身を大きく震わせて喘鳴した。力なくくずおれる身体に、こちらの血の気も失せる。
     銃声はしなかった。誰かに攻撃された様子もない。
    「ジジイ、どうした!? おい、聞こえるか!? しっかりしろ!」
     閃光は駆け寄り、慌てて誠十郎を抱き起こした。震える背中の頼りなさに、思わず手を引っ込めそうになる。
    ーーこんな……
     こんな誠十郎など知らない。
     いつだって彼は飄々と不敵な笑みを浮かべて、自分のはるか先を歩いているはずではなかったのか。こちらの思惑など見透かして、余裕で先手を打って、まだまだ甘いと煙草を燻らせているはずではなかったのか。
     追いつけない。
     手の届かない。
     その背中は、何より誰より高く遠い自分の目標ではなかったのか。


    →続く